道路公団を退職した翌日の1990年4月1日より木更津市消防団の団員となった。 初年度は小型ポンプの2番員として出場し8位となり入賞を逃す。 翌年は気楽な平団員として後輩の指導に当たる。 3年目で部長として15名を率いるが指導力不足のため操法大会では部創立以来のブービーという汚名を背負ってしまう。また翌年から分団役員になるため早出放水競技大会にも隊員として出場する。 4年目に副分団長を行う。今までは巌根管内の出動だったが木更津を担当する中里と金田を担当する久津間の出動に合わせて範囲が広がる。また、この年から分団複数年制が導入され、本来1年で部に帰る予定が破棄される。 5年目は私と同時に副分団長になったI塚さんが分団長になってもらったので引き続き副分団長を行いサポートする。 5年の任期を終えて退団して2年間OBをしていたが、1997年の分団長候補者が体調を崩し長期入院をしてしまったため、急遽分団長として復活する。それにはこの2年前に発生した阪神大震災の影響があった。関東大震災も近いと言われる状況の中で、大きな災害が自分の周囲に訪れたときには責任有る立場として望んだ方が、無力な傍観者であったよりも後悔しなくて良いのではないかという思いであった。 この年から操法が隔年開催となり、操法の無い最初の年だったので分団独自行事としての分団内早出大会を開くなど、比較的自由な分団長を全うできた。また分団長会議で市内に友人が増えたのも良い想い出である。 分団長は1年で終わりにしたが複数年制が乱れるので退団せず、自分の副分団長だったS木君を分団長にして、後輩の補佐として3回目の副分団長を過ごした。その間には何軒かの人命を奪う建物火災や東京湾でのタンカーの油流出騒動も有ったが大規模災害もなく済ませることが出来た事は恵まれていた、と言い切ってしまう事は今後の大規模地震を想定すると何とも言い難い。 ともあれ消防生活通算7年で4年間を分団役員として過ごしたが、常に出身部として江川消防団が支えてくれたお陰であると感謝している。 |
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