教育基本法の愛国心について
2006/5/25記
 戦後一貫して変わらなかった教育基本法の改正作業が行われているますが、メディアで問題にしているの事の殆どは「愛国心」を入れるかどうかばかりです。本当は具体的な内容の方が重要だと思いますが、世間と同様に愛国心を考えてみたいと思います。

 私は日本の各地をこの足で走り、この目で見てきたと言うことにおいては他に並ぶ者の少ない一人だと思っていますので、そもそも愛べき「日本国」の意味を考える事から始めてみたいと思います。

 日本国の象徴として憲法は天皇を位置付けています。古事記時代の直接統治はもちろん、武家の統治の正統性を裏付けるために「清和」源氏系が物を言うようにどの天皇家から続くかが重要であった歴史の積み重ね、他国の宮殿のように華美ではない皇居や西洋の大教会と伊勢神宮の根本的な違いに象徴される精神世界、世界最長の現存する王家という価値観など、個人的な尊敬以外にもする天皇家には崇拝を持っています。しかし、日本国民の範疇には琉球王国やアイヌも含まれており、この先祖の歴史には征服者としての日本の武家はあっても天皇家が関与したことは殆どありません。それでも教育基本法で天皇家を敬え、とは書かないでしょうが憲法第1条が象徴と定義しているのですから避けることは出来ないでしょう。

 天皇制から離れて考えると、愛すべき日本とは、日本国政府なのか、日本の領土なのか、日本の自然環境や歴史や文化なのか、寄って立つ立場によって好きになるべき事も変わってきます。例えば日本の社会を構成している人々と日本国民は外国籍の存在によって微妙に一致しません。群馬県大泉町でサッカーのブラジルチームを応援する人の多くは日本国籍を持っています。歴史の上でも前9年の役は大和朝廷にとっては反乱軍の鎮圧ですが東北から見れば中央による弾圧ですし、沖縄が日本に復帰した5月15日を本土との格差を固定されたままの復帰と言うことで屈辱の日と思う人が沖縄に居ますがそれでも国を挙げて祝うべき日でしょうか。択捉島の風景まで自らの国土の美しさとして考えるべきでしょうか。国の決定した五木村の川辺川ダムとそれに反対する市民運動のどちらが正しく愛すべき存在なのでしょうか。

 厳密に突き詰めて考えていくと、愛すべき事象が解りにくくなってきます。しかし異性を愛する場合のように細かなデータでなく、好きになる感情が重要だと言えば、漠然としていても納得が出来ます。自分が寄って立つ場所を愛することが自信となり、他者に対する寛容性を養う事に繋がると思いますから、愛する心を持つことは重要でしょう。

 しかし教育現場でマニュアル化する場合は相反する問題やタブーを避けて通ることになるでしょうから、結局、君が代を歌えるのかとか、日本を好きと言えるかとかの矮小な視点で捉え評価することになるのでしょう。それより重要なのは日本人の形と云うものを勝手に定義して、それに反する考えを持つ者に愛国心が無いという烙印を押すことが無いようにすることでしょう。それは戦前の「非国民」に繋がってしまいます。

 今、国民の多くが日本人であることに誇りを持っているでしょうが、それだけで良いのではないでしょうか。