貧乏から始まる住民の自治参加について
2006/12/ 8記
 木更津市という自治体のことを話すと、地域の人達は隣の袖ケ浦市や君津市に比べて貧乏だとか、何時かは北海道夕張市のようになってしまう、等と悲観的な意見をする者が多い。実際の財政力は財団法人関西社会経済研究所の調査報告に示すように全国の人口10万人以上の年の中で比較すると決して劣っているわけではないが両隣が眩しすぎて影が引き立って居る状況と言えるだろうか。

 もちろん、現状の固定費が掛かりすぎて政策的経費に回せない状況も良く解るし、市役所の職員と仕事の打合せをしているときでも職員は『市には金がないから』が口癖になってるし、街路樹の剪定や道路清掃などは直接職員が出かけて行っている事も知っている。学校の耐震診断も依然として進みが悪い。

 しかし、そのような金がない状況の中から生まれた住民参加による様々な活動がある。例えば学校支援ボランティア制度であったり、ゴミゼロの日の一斉清掃活動であったり、道普請事業や公園などの自治会管理制度である。これらに参加させられる事によって住民間の顔合わせが進み、コミュニティの力が強くなることは悪い話ではない。変わり者も多くいるだろうが、近隣の人々と力を合わせて地域を良くしていこうと思うことは心豊かな事だと思うし、郷土意識は確実に強くなるだろう。

 特に大地震のような災害発生時においては地域力の力量差が生死を分けてくる。
 1995年に発生した阪神淡路大震災の時、都市化の進んだ阪神地区で為す術もなく多くの人命が失われていく中で淡路島の北淡町では驚異的な救出活動が自治消防団を中心に行われた状況を報道で聞き、その原因が潰れた建物の家族構成や、どの辺にその家の者が寝ているかが隣組の間で良く解っている事だと知ったときに、心豊かに安らかに暮らすと言うことの意味が見えてきたように思った。

 月曜日に地元の居酒屋で知人と飲んでいる時には、兵役の義務がない代わりに公益参加の義務は課せられるべきではないか、等という話になったが、冷静に考えれば日本全国でそんな事は出来はしないだろう。であれば、ここ木更津から、貧乏を原因に始まる住民参加が起きても良いのでは無いかと思う。財政の貧しさを住民の心の豊かさに変えて行けないだろうか。それは農漁村部で普通に見られていた状況を市街地に持ち込むことでもある。

 『この市では年に数回の自治会による住民参加活動がありますよ、それが煩雑だと思う方は木更津市民に相応しくありませんので、どうぞ他の市に住んで下さい』、というような宣言を市長がすると不動産業会当たりから反発を買うのだろうか。