核兵器について
2007/8/6記
 核爆発という点で言えばアメリカの砂漠での実験が先だが、人類への攻撃手段として、始めて広島に投下されてから62年目を迎えた。40周年目の朝を耶馬渓で迎えたことや、学生時代に米軍の記録フィルムを買い取る10フィート運動に協力したことなどを思い出しながら、今年も人類にとっての負の記念日を迎えた。
 
 子供の頃には『はだしのゲン』という漫画が少年誌に連載され、東西冷戦の中で何時長崎に次ぐ第3の被爆都市が出るかも知れないという緊張感の中で育ってきたような気がする。
 その東西冷戦が終わり、被爆体験を肉声で伝える人々が減ってくる中で核兵器の拡散が始まり、米露中英仏の常任理事国だけでなくイスラエル、インド、パキスタンなどが正規に核兵器を保有し、北朝鮮を始めとする多くの国家で開発が続行されている状況にある。多分、ドイツや韓国、そして我が日本も原子力発電所で生産されてしまうプルトニウムという材料と技術があるので、作る気になれば数年で核兵器を保有することが出来るだろう。
 
 12年前の地下鉄サリン事件のように、有る程度の施設が有れば化学兵器を製造できることが証明されたように、破壊力や小型化を追求しない核兵器なら案外簡単に作ることが出来るような世の中になったのかも知れない。臨界による核融合で放射能を発散させるだけならバケツの中でも出来ることを東海村で実証してしまった会社もあった。
 
 製造が困難でなくなった核兵器を世界的に所有と使用をさせないためには、その悲惨さと非道さを宗教観に近い段階で全人類が共有する必要があるのではないだろうか。核兵器の使用は人を食べてはいけないと言う倫理を越えた段階にする必要を感じる。
 
 北朝鮮による核実験が行われた頃、核論議の是非が提案されたが、そもそも議論すら被爆国ではすべきではないという意見に抹殺されてしまったように思われる。本当はその時に核開発と同時にアメリカによる核兵器の使用の意味も議論しておけば、この前の久間防衛大臣による「しょうがない」発言も出なかっただろうと考えると議論不在の国を危うく思う。
 
 まだ、第2次大戦を戦った世代が生存している現状で、アメリカは人類史上最悪の兵器を使用した唯一の国家である、という定義を受け入れがたい状況であることは理解できるし、アジアの国々が日本による占領行為を無視して核兵器による被害者の面だけを強調するのは納得出来ないのも解るが、戦場に18歳で従軍した兵士も既に80歳になるという事を考えると、そろそろ冷静に核兵器の意味を話し合う時ではないだろうか。
 原爆投下の日にそんなことを思ってセミの声を聞いている。