山古志村と柏崎で感じたこと
2007/8/13記
 テレビでは中越沖地震の被害にあった柏崎の人々が仮設住宅に入居している映像を流している。暑い中で引っ越しや片づけを手伝っているボランティアには頭が下がる思いである。
 先週の木曜日に山古志村と柏崎をざっと見てきて気づいたことを記入しようと思う。時間も僅かだったので表面的な観察に留まり地域の実情を見ていないことを前提に読み進めていただけると有り難い。
 
 3年前の中越地震が発生するまで「山古志村」という自治体を知っている人は、その数年前のNHK朝のテレビ小説の舞台になったことを覚えている人を除けば、新潟県民以外には殆ど居なかったであろうと思う。私も日本走破の都合で昭和60年に自転車で入って以来だから22年ぶりの訪問になった村である。正確に言うと平成17年に市町村合併で長岡市の一部になってしまった地域で、人口も3千人以下の山里であるから賑わいが見られないのは仕方がないのかも知れない。
 今回の訪問で道路は随分良くなっており、特に地震で崩れた斜面を補強するための工事や、土砂崩れで閉塞した河川の再決壊防止の堤防工事などが目立っていた。ダンプも多く走っていたし、河川の中に埋没した家屋や土砂で被われていた学校等は跡形も無くなっていた。
 そのように復旧途上にある地域を物見湯山のように訪ねることに気が引ける人は多いだろうが、それでも知名度が上がったことを活かして、訪問者に地域特産物を販売するような施設が旧村役場にでも出来ているかと思って行って見たが特になかった。
 それどころか平日の午後で気温も高いと言うこともあり、外を歩いている人々が少ないことは仕方ないと思うが活気の無さが気になった。
 
 そこから柏崎まで移動するための道路に県道や市道の、いわゆる幹線では無い道を使ったのだが、破損はそれほど目立つ程ではなかった。正確に言うと、あちこちに段差などは見られたのだが、阪神大震災の阪神高速の記憶が生々しいので、被害が小さめに思えたのかも知れない。
 柏崎に入ると所々に壊れた家屋や立入禁止のテープを貼ってある家が目立つようになるが、工場や商店の多くは通常のように営業しており、都市機能は維持されている状況だった。
 これは震度が深い地震だったので広範囲に被害は出ているが、耐震性能の差が明確に出てしまったという事だと思う。売店で聞いてみると無事に見える家でもガスが復旧されず、調理や風呂で不自由な生活を送っていると言うことであった。
 
 関東平野の深いところで発生するプレート内部地震や、プレート境界で発生する東海地震も、木更津においてはこのように家の選別を行うような破壊がされるだろうと思う。
 地元で予想される地震も都市機能が麻痺するわけではないが広範囲に多くの人が被災し、被災を比較的逃れた人との生活の差が顕著になることであろう。
 その差を埋めるのは政治の問題であろうが、関東で想定される何十万世帯という数を前に、国家の支援があてにならない場合、自治体規模で何が出来るのだろうか、などと考えながら、せめてもの支援に柏崎の酒を購入して帰路に付いた。