夕張で考える−亀田兄弟とモエレ沼公園
2007/10/19記
 夕張の破綻について、市議会は何をしてきたのか、と問われる調子の報道が多くなされていた。夕張市の財政を圧迫させていたのはリゾート施設や博物館などの箱物行政であったので『何故作ってしまったのか』という現場感覚を知りたいと思い個人的な視察をしてきた。
 
 10月17日水曜日。朝9時に『石炭の歴史村』の駐車場に到着し13施設を回れる1日券を3,150円で購入する。
 夕張市の出資する第3セクターの破綻に伴い、今年のGWから多くのリゾート施設を再生させてきた加森観光(正確にはグループ会社の夕張リゾート株式会社)に施設の維持運営を一括で委託している。加森観光が設定した入場料金の高さは現地で物議を醸しだしており、現に私の前に入場券を購入しようとした青森ナンバーのワゴンで来ていた叔父さんが「石炭資料館だけでよいから」と価格交渉してもらちが明かず、高すぎると諦めて帰っていったし、この日では私以外の観光客は両手で数えられる程度しか見なかった事など入場者の減少を生じさせている。
 施設のオープンは9時半からだがその前に中央の広場までは入ることが出来る。従業員が清掃や巡回バスの準備のため動き回っているが、多分今日の入り込み客は従業員数より少ないと思われる。
 9時半の軽便鉄道で約600mほど移動し、奥から施設見学を始める。

敷地内を走る鉄道
夕張市が建設した

閉鎖中の遊園地
1983年06月開業

SL館
1980年09月開業
 観覧車やジェットコースターのある遊園地は閉鎖されていた。多分維持管理コストが高すぎるためであろう。従って最初の施設として遊園地の隣にあるSL館に入場する。中の展示を見て気づいたことは、この施設は野幌〜夕張本町を結んでいた53.2kmの夕張鉄道と清水沢〜大夕張炭坑駅を結んでいた17.2kmの三菱大夕張鉄道の廃止を懐かしみ記念するモニュメントであるという事だ。アクアライン完成に伴い記念館を作ろうとした我が市や「アクアラインなるほど館」を実際に作ってしまった袖ケ浦市を考えると似た状況である。
 次いで歴史村の中心施設である石炭博物館に徒歩で移動する。途中で閉鎖されたバラ園の前を通過する。その横には破産を知らせる文章も張ってあり、破綻も観光の売り物にして居るかのようだ。

閉鎖中のバラ園
雑草が茂っている

裁判所の破産宣告文

石炭博物館
1980年07月開業

事故を伝える夕刊記事
26年前の今日の新聞

坑道出口
本物の坑道内を歩ける

炭坑生活館内部
1981年09月開館
 石炭博物館では石炭の科学的説明や掘削技術の展示、更に本物の坑道の中をヘルメットにヘッドライトという姿勢で歩けることも興味深いところであるが、最も気を引くことは1981年10月16日に93名の死者を発生した北炭夕張炭坑の事故の展示である。犠牲者の中には炭坑夫でもあった現役夕張市議会議員も居るのだ。この博物館が死者に対する追悼施設にも見えてくる。当時を知る人には宗教施設でもあったのだ。炭坑を出た所に建っている炭坑生活館も、在りし日の夕張を伝える資料館というモニュメントと成ってる。ここは鎮魂の場所でもある。
 
 度重なる事故や石炭から石油へのエネルギー革命の結果として炭坑の閉鎖が進み、『炭坑から観光へ』という流れの中で石炭だけでない総合観光施設への変化を求めて行った結果で、前述の遊園地以外にも、ここでの存在意義が明確でない次の3施設が第3セクターによって建設されていく。

ゆうばり化石館内部
2000年04月開館

世界のはくせい館
1983年06月開業

休館中のロボット館
1988年04月開業
 化石館は石炭採掘の中で出土した多くの化石を展示している施設であるので、その意味では木更津の金鈴塚保存館と似たものだが、館の中央で首を振る恐竜の模型が無駄にコストを上げている。
 はくせい館や休館中のロボット館は、何故これが夕張に建設される必要があるのか理解できない上に、はくせい館を見る限り陳腐な展示で、リピーターが来ない事はもちろん、口コミで評判が広がることも無いと思う施設である。『子供達も楽しめるように脱石炭観光なんですよ』と建設会社が第3セクターに持ち込んだ企画だと思うが、炭坑閉鎖で人口流出が続く市を何とかせねばならないと藁にもすがる思いで有った当時の情勢で、行政や議会に建設の流れを止める事は出来ただのだろうか、と自問してみる。
 特に当時流行していた第3セクターは責任の所在が不明確で、議会での関与がどの程度出来たのだろうか。それは木更津における四市事務組合で運営する君津中央病院の事を考えると推察できる、責任感が不透明なシステムだったであろう。
 色々考えつつ、はくせい館の下から連絡バスで整備が最も新しい郷愁の丘へ移動する。
 
 さて、夕張市を観光的に有名にした物に1977年公開の『幸せの黄色いハンカチ』と言う映画がある。倍賞千恵子がハンカチを掲げるのが夕張の炭坑住宅なのである(後ほどロケ地が出てくる)。その事と竹下内閣のふるさと創生事業の資金も加わり、炭坑産業無き後の夕張市は文化都市になろうと映画祭の企画を考えた。『ゆうばり国際ファンタスティック映画祭』の開始である。
 この映画祭は多くの好意的な評価が寄せられ、特に1998年には国際都市活性化技術会議が世界中の157,086件の都市活性化事例の中から特別栄誉賞に選び、当時の市長がパリで表彰を受けたりもした。
 また夕張をロケ地に吉永小百合主演の『北の零年』が2005年から撮影を開始し、2006年に公開された。
 これらを記念する事や公共需要拡大による景気回復政策の中で国が積極的に融資を行った結果、さらに下の3施設が石炭の歴史村に加わることになる。なお、北の零年のロケ施設はダム建設に伴う移転で加わった物で新規の公共事業では無い。

夕張キネマ館
2003年02月開業

レトロ館と夕張プラザ
2001年07月開業
北の零年希望の杜
2005年09月移転
 映画という事で我が身を考えれば『木更津キャッツアイ』シリーズを記念して施設を残そうという意見も地元に多く、現にバーバータブチは土産物屋として存続を続けている。日本中にはNHK大河ドラマのセットが残っているし夕張市だけを悪く指摘は出来まい。ただ、キネマ館と昭和レトロ館などは化石館以上に予算をかけながら陳腐な気配を感じさせる物であった。有名監督の紹介とその作品のポスター展示や古い道具の陳列を再度見に来たいと思う人や知人に紹介したい人がどれだけ居ると思っているのだろうか。
 
 以上で石炭の歴史村内に存在する9施設の見学を終えて街中に出る。
 このように何故夕張が破綻したか見て回りたい観光客も居るだろうから、どの施設が何年に幾らで建設されたかを示すパンフレットでも有って良いと思うのだがそのような物は無かった。従って表中の開館時期は昭和レトロ館の受付で教えて貰った物であるので間違っているかも知れない。もちろん事業規模などは解らないし、市役所に聞くのも失礼と思い諦める。
 既に午後1時を回っているので昼食にするつもりで、昨日市役所商工観光課でもらった観光マップを手に旧市街に出る。

JR夕張駅
1990年12月移転

街中の映画看板
 

夕張市美術館
本施設のみだと700円
 カレー蕎麦が有名な店もジンギスカン屋も何故か休みで市内で昼食が取れない。そう言えば昨日の市役所も階段の踊り場の電気が消されていたし、旅館も休みが多かった等と暗いイメージを持つの中で、観光マップのランチバイキング980円のイラストを頼りにホテルマウントレースイに行く。すると観光地図は去年の物でランチバイキングはもう辞めたという説明を受ける。他のランチメニューもあるが必要以上に高額で気が乗らない。いよいよ夕張のイメージが悪くなると1988年3月12日にMtレースイスキー場で雨に降られて帰ったという記憶まで蘇ってしまう。街中ではシャッターが降りた商店に燦然と映画看板だけ輝いているのも皮肉な状況である。何とか営業中の蕎麦屋を見つけたが、ご飯が無いし長芋が入荷されない等でメニューの過半が食べられない。これらの事は夕張市の本質ではないが現状を見事に表しているようである。
 
 結局、もりそばを食べた後で1日券で入れる市立美術館を見学してから同様に1日券で入浴できるレースイの湯で休息する。ここは入浴税50円を別途納付することになるから単独施設利用料との差は630円である。

夕張温泉:レースイの湯
本施設のみだと680円

旧北炭鹿ノ谷倶楽部
本施設のみだと500円

幸せの黄色いハンカチ
本施設のみだと500円
 湯上がり後も1日券で入れる施設として市内に点在している残りの施設を巡る。大正2年に完成して夕張市と伴に歴史を刻み、昭和29年には天皇陛下も泊まられた旧北炭鹿ノ谷倶楽部とか、昭和52年上映の『幸せの黄色いハンカチ』ロケ地の施設管理も市立美術館と同様に加森観光に委託されている。
 この事には市民から多くの異論も有るようで、調整の結果として1日券以外でも単独施設で入場が可能な制度にしたようだ。それでも料金はかなり高めに設定されていると思う。
 他にも第3セクターが建設したリゾートホテルであるホテルシューパロ及びホテルマウントレースイや、旧夕張北高校を改修した研修宿泊施設であるファミリースクールひまわり、さらにMtレースイスキー場までが全て加森観光に委託されている。リゾートホテル2箇所で夕張市の宿泊可能数量の殆どを占めて居る状況なので、実質的に市の入り込み客の殆どを押さえられてしまったような状況である。
 私は数少ない別の宿に泊まり、そこで聞いた話では、現在の経営状態は大赤字だが、冬に台湾や香港等から多くの観光客を呼び込んで黒字化する計画らしい。これから数年して夕張市にどのような風が吹いているのか気になるところである。
 午後3時まで夕張を見学して千歳空港に向かい帰路に付いた。
 
 この街で気が付いたことは過去に炭鉱都市を観光都市に変えた手腕や映画祭に代表される文化行政はマスコミで賞賛されることは有っても批判された事が少ない事だ。結局は時代の変遷の中で翻弄されてしまった都市だとも言える。 その点ではTBSなどのマスコミに踊らされていた亀田兄弟に似ている物がある。
 チャンピオン内藤と戦う前に品位がないから試合を中止させようと言う者の声は聞こえてこなかった。注目の一戦だと盛り上げるだけ盛り上げといて、試合が終われば反則行為だけでなく品格まで話題にされ見せしめのように1年間の出場停止である。
 行政が破綻したと国に認定されたと同時に議会や行政がバッシングに遭い、見せしめのように国家の介入の元で様々な都市の誇りが取り上げられて行き、人々が生活している実在の街が『自治体破綻の象徴』という記号になってしまっている。
 
 では今現在、別な場所に亀田兄弟は作られていないかという視点で考えたときに、この前日に見てきた札幌市のモエレ沼公園などが思い浮かぶ。
 モエレ沼公園とは札幌市で270万トンを埋め立てたゴミ処理場が公園として整備されたもので、そのプランを世界的な彫刻家である日系米国人のイサム・ノグチがその晩年に作り上げ、彼の死後も計画に忠実に完成させたプロジェクトである。
 189haという羽鳥野団地2個分に相当する広大な面積の公園を一つのデザインコンセプトに基づき完成させたと言うことと、さらにそのデザインが2002年度のグッドデザイン賞を受賞した事で話題となった。入場料は無料で、平成18年度には80万人を越える入場者があり札幌で最大の集客力を誇る施設になったことも注目を集めている。なお着工は1988年であり、その後部分的に施設解放を行い続け、全体が完成したのは2005年である。

プレイマウンテン

ガラスピラミッド

ピラミッド内部
 ここでは現在、賞賛の話は聞くが維持管理費の懸念などはなかなか聞こえてこない。札幌市議の中には批判的な意見も有ったであろうが、この賞賛の声の中に掻き消されニュースになることも少ない。それどころかモエレ沼公園を見習い、公共事業にはマスタープランを作成するランドスケーパーを採用すべきだという意見が声高に叫ばれてもいる。
 
 目の前に進んでいる様々な出来事が将来に対して責任を持てる物なのかという事を常に意識していくことの難しさを夕張の旅で学んできた。