生活保護について考える
2007/11/26記
 本日のニュースで北海道滝川市の生活保護を受けている夫婦とタクシー会社役員が共謀して、病院通院費としてタクシー代をだまし取っていた件が報じられていた。不正受給の総額は今年10月までの1年半で、約2億3300万円と言うから驚く以上に担当職員が見抜けなかったのかと呆れてしまう。
 
 生活困難者に保護費を払うことについては憲法25条の『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。』という条文によるところであり、その精神については否定しない。
 しかし、ワーキングプアという現象で示されたように一生懸命働いている人より生活保護者の方が高収入を得ていたり、年金で慎ましく生活している人の収入が生活保護を下回るというのは異常な事態である。
 
 サッチャー登場前のイギリスでは『英国病』と言われた深刻な経済の停滞があった。それは若者が働くことより失業保険や生活保護を選んでしまうことによる社会の活力低下が大きな原因だった。
 今の日本では過去の不適正な行政運営の結果、膨大な負債が残り、それを解決するため高齢者医療の負担増や地方交付税の削減など、国民に痛みを伴う改革を進めている。それでもこのような矛盾が残されたままである。
 しかしながら本年の夏に北九州市で生じた生活保護支給停止による男性の餓死と行政への世間の批判等が、生活保護の見直しを躊躇させている状況を生んでしまったと思う。
 
 ここで重要なのは『健康で文化的な最低限の生活』として何処まで保証するべきなのかという国民的合意であろう。例えば自家用車やクーラーを持っている家には生活保護を出さない、と言うことは正しい判断なのか、と言う支給の問題とともに、どの程度の生活を保障するために、月額幾らが妥当なのかと言う基準だ。
 ホームレスやインターネットカフェ難民のような者まで全てに食料を無償を与え続けることが、依存心を育てて自立の妨げになるのではないのかという議論も有る。
 
 今日、この話件を数人で話している中で「憲法で規定する国民には刑務所に収監されている者も含まれており、その囚人の生活が憲法違反でないのだから、生活保護も食事と寝場所と便所を確保すれば、それが国家の保証する最低限の生活では無いか」という意見を述べる者があった。説得力はある。
 
 一方では刑務所を誘致してでも人口を増やそうと考える過疎自治体も有る中で、最低限の福祉を供給する場所を何処に設けるべきか、生活権の保証と憲法22条に保証される『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する』という居住の自由を両立させる必要があるのかなど、なかなか福祉は難しい問題を多く抱えているし、ある人にとっては感情を逆撫でするような議論を避けて通れないが、文章によって恨まれても困るので今日はこの辺でやめておこう。