次世代の自立について考える
2007/11/29記
 日本国内で少子化による労働力不足の危惧と、若年層の失業率の高さやワーキングプア・引きこもり等という相反するような問題が語られている。
 少子化で若年層が少なくなれば供給が少なくなるのに需給バランスが崩れない(求人倍率が上昇しない)という現象も良く解らないが、原因の一つは自立出来ない世代の増加ではないかと思う。
 
 今日読み終えた本が『学校のモンスター』(諏訪哲二著:中公新書ラクレ)であるが、長年教師をしてきた著者の考えである『近代においてひとは、「私」という人間のユニット「一」にならなければならない。それが正しいとか真理とかいうこととは別に、そうならなければならない。これは近代がひとに強いる「作為」である。』(同書P153)に共感する。
 この本では「私」「自分」という言葉の定義が文中で良く変わるため理解が速やかに進まないという弱点が有るが、芯を流れる考えを誤解していないので有れば同じ考えを私も思っていた。
 
 近年「自分探し」という言葉に甘えて定職に就かない若者が増えているし、職に就いたところで離職率が高い。それは社会に支えられて生活を送りながら、謙譲や我慢というような「社会性」というものを学んできていない事に起因すると思っていた。それを教師であった著者も『近代的個人である「私」にふさわしい職業(仕事)はあっても、近代的個人以前である「この私」に合う仕事(職業)はない』(同書P198)と表現している。
 
 自らを振り返ると、社会性は学校教育の中の掃除や部活の時間で学んだことも有るが、多くは家庭の中で躾けられたものである事に気づく。現在の精神的荒廃は核家族化と兄弟数の現象が問題であるなら、今後韓国や中国でも同じ様な問題が生じて、東アジア全体の地域力が落ちてくるのであろうか。
 ただ、日本以外には徴兵制があり、軍という組織の中で規律や自律を覚えていくという点で救いがある。
 
 今朝のニュースで宮崎県の東国原知事が徴兵性のように強制的に規律を学習させる機関の存在が必要だと言っていた。現在の家庭や地域の教育力では一理ある意見である。ただ、青年になってから行うことと少年時代に精神の規範とする事では大きな違いがあるように思う。
 この社会を維持するための社会性教育の行い方について検討を深める事は青年を過ぎた我々が次世代に託す責任だろう。