北京に思う | ||||||
2008/01/14記 | ||||||
アメリカの諸都市に日本企業が進出しているように、近い未来には中国企業が日本進出となる場合も想定される。そんな中で今年はアジアで3回目となる夏のオリンピックが中国の首都、北京で開催される。まだ見たことのない北京の街が気になり、昨年末にネットで調べてみると正月休みが終わった時期には安いツアーが有ることが解った。諸般の日程を考慮すると8日から11日までで有れば行けそうだと解り、一人部屋に燃料チャージがついても61,890円ですむHISのツアーを予約した。 安いツアーなので初日の飛行機は午後7時半に成田を出発する便で、帰りは北京を午前9時半に出る、実質滞在が2日間の旅となった。11日の夕方には木更津で用事があるので都合がよい。ただ出発直前に8日の午後に埼玉と言われた用事には参加出来なかったことが若干心残りのまま日本を後にした。 成田の狭さと北京の管制の悪さで北京空港を出たのは午後11時半(日本時間12時半)と5時間もかかって北京の空気を吸う。この日はホテルに直行して終わりである。この日のホテルでの交換レートは1万円に対して647.5元で、成田空港の594元に比べ約9%も得であった。しかし四星ホテルと言う割にはひげ剃りもバスタオルも無く、お湯を沸かすとブレーカーが落ちる部屋だった。まだ品質の面で難が残る第一印象を持ちながら1泊目が過ぎる。 翌朝は北京時間で6時半に出発。この時間から渋滞が始まっており晴れていてもスモッグで霞んでいる。ツアーは北京動物園のパンダと世界遺産の頤和園を見てから翡翠の売店に行き昼食になると言う日程であった。その翡翠の売店がオリンピックスタジアムに近かったので買い物時間の1時間を利用して単独行動で工事現場を見に行く。 |
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スタジアム周辺では工事が行われていたが、あと7ヶ月も経てば綺麗に仕上がるものと思われた。街中を見ると古い部分も多く残るが、近代都市の様相を表して自動車社会になっている。交通マナーは日本に比べると悪い。それでも多くの道に自転車通行帯を確保しているところは日本より交通弱者に対して優しい面も見られる。欧州では地球環境を考え自転車通勤を奨励している状況もあり木更津でも何か出来ないかと考えていた。 | ||||||
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観光ツアーに復帰し、昼食と八達嶺の万里の長城に行く。高速道路は良く整備されており、山も緑化運動の苗木が見えている。全体に緑が少なく思うが、正しくは日本が世界有数の緑化率にあり、森を見慣れているせいかもしれない。 万里の長城を午後にしたのは少しでも暖かくなってからにするためであり、実際午後になっても氷点下の寒さであった。その分だけ空も青いと考えれば観光的には良い。もちろん万里の長城も世界遺産である。 北京周辺では万里の長城は幾重にもなっている事と、そこまでして北方の騎馬民族を恐れたことや、その騎馬民族の王朝である金や元、清の時代にも壊されなかったことは凄い。何よりこれだけのものを作ってしまう漢民族の力には脱帽する。それは翌日の紫禁城でもより思いを強くする所である。 |
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この国力と栄光を過去に持ちながら、未だに先進国から見下されているのが我慢ならないと思っている中国人が多い理由や日本に「小」を付けて蔑視したくなる気持ちも解るように思えてくる。 ただし、過剰な日本批判を続けることが中日戦争を戦った中国共産党の正統性の立証のためであるという産経新聞記者の書いた「日中再考」は説得力がある。日本語の話せる売店の売り子も、この国では自由に言えない事がまだまだあると言っていた。 そして北京に帰り、またも土産物屋によってから夕食となり、ホテルには午後7時半に帰り着いた。直ぐさま地下鉄に乗って夜の北京を単独行動する。 |
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地下鉄1号線天安門東で降りて天安門に出ると広場は出入り禁止になっており、警察官か軍人が沢山居る。若干緊張したが中国人の観光客と思われる人達が自由に過ごしているので彼等に行動を合わせる。あまりに寒いので地元の人と同様にジャケットのフードを立てて歩いた。北京の服装は気温を別にすれば日本との違いを感じることもない。もはや人民服も自転車の群も見れないし、昔台湾で見たような3人乗りのバイクなども無いのだ。 天安門から北京の銀座と言われる王府井まで地図を片手に歩いて行く。この辺りは台北のような屋台の雑踏が無いのは社会主義の国情なのか寒さなのかは解らなかった。街を見て回って夜食に5元(=77円)のソバと同額のビールを路地裏の軍人の大勢居る食堂で取ってから地下鉄で帰った。 翌日も渋滞が酷いので早朝から観光が始まり、天安門広場から世界遺産である紫禁城(故宮博物館)を経て景山公園まで歩く。昨夜と違い広場に入ることが出来たが警備の人も多い。あの天安門事件から20年が経過していないと考えると近年の変化の大きさに愕然となる。天安門を潜り、繰り返し現れる巨大な門や建築物は、皇帝の偉大さを伝える効果が素晴らしいものと思う。朝貢に訪れた周辺国の王はさぞかし威圧を受けたであろう。日本の大阪城も大きいと思えたがこの足元にも及ばない規模である。しかし義和団事件以降の補修が充分でないのか北京の黄砂が厳しいのか、色彩が薄れて寂しい状況である。最も有名な太和殿は補修工事中で有った。オリンピックに間に合わせるわけでは無いとガイドから聞いた。 この様な文化財の補修もそうだが、中国では社会主義国に関わらず医療費が高く、国民保険制度も年金制度も導入されていない。消費税も日本より高額であるが広大な国土の社会資本整備で手一杯なのであろう。従って環境や公害対策にはとても手が回らず、空と海が続いている日本への影響は当面避けられないのだろう。 |
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途中で紫禁城内にある書の店や茶の店など、休憩所兼土産物屋に寄りながら延々3時間以上歩いた後、景山公園から全景を見る。天安門が霞んでいるのは天候かスモッグかは解らない。 山を降りて車に乗り若干移動して前海の畔に付く。ウオーターフロント開発の有名なところらしいが前面の湖は凍結してスケートリンクとなり、寒さのためか観光客は少ない。そんななかでスターバックスを発見する。珈琲は28元(=432円)であった。普通のサラリーマン月収の1%を越える珈琲である。 この裏路地は胡同地区という古い街並が広がるが、昼食の時間が近くて見て回れず、次回の楽しみとなる。このように割と観光の時間が制約されながらも土産物屋には良く立ち寄る。 昼食後は市の南南西にある七宝焼の工場に連れて行かれる。この様に安いツアーに参加している客(12名だった)は誰も購入しないが、それなりの時間を費やす。地図を見ると日中戦争の発端となった盧溝橋も10km程度の距離なので見に行けないのが残念であるがツアーゆえ仕方ない。 ただ、郊外の工場に行ったことで、近代化の及んでいない未舗装地区の街路や、自転車で家財道具を運ぶ人などを見れたことは予想外の収入であった。 工場という土産物屋から市街地に帰り4番目の世界遺産となる天壇公園に行く。因みに北京にはこの他、明の十三陵と北京原人が世界遺産登録を受けているという事であるが、今回のツアーはここまでである。 天壇公園は皇帝が天と対話する場所という事で、紫禁城が皇帝の黄色と地の四角を主体とするのに対し、こちらは青と円という天を示すものを主体としている。中国の風水思想だろう。 |
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天壇公園の後は6箇所目となる土産物屋に行く。ガイドさんも土産物屋の評判が悪いことは知っているためか、ツアーを安く上げるためにバックマージンをもらっていることを披露する。何人かに一人でも大きな買い物をする人が居れば元が取れるのかと思うと不思議な気になる。こんな事は長く続かないと思うというガイドさんの意見に賛成である。 そして夜は火鍋料理を天壇公園近くに戻って取る。今日はここでツアーを離断して自由行動とした。他に5名がここで離れる。そのうち、自分と同様に単独参加の男性2名と一緒に北京駅経由の王府井という散歩を行うことになる。 幸福大街の突き当たりに北京駅があるので南口から連絡通路でも有るだろうと思っていたが、行き着くと綺麗に整備された明時代の城壁跡公園が広がるばかりで駅の気配がない。これは既に鉄道の時代も終わったのかなと思いつつ、大きく回り込むと售票庁という所に出た。チケット売場だけで既に大勢の人が溢れている。駅本体を見に回り込むと雑踏の先に巨大な建物が横たわっていた。地方に夜行列車で帰る人達は今まで市内で見ていた人と雰囲気が違う。古き中国の空気が漂う。手荷物のX線検査が有る入口を潜れば、時刻表に平壌まで26時間かかる列車も掲載され、これが13億人の国の中心だと改めて思わされる(なお、北口しかないのは利便性より管理が容易な方向を選んだのだろうと推察)。 |
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駅を満喫した後、連日の王府井に行き商店を覗く。同行者が財布は無いかと聞くと奥からゴミ袋入りのコピー商品を出してくる。大通りに面した店舗でもまだこの状況だから著作権などという感覚は発達しないのだろう。この事は、中国国内のメーカーで全国的に有名なものが出来たとしても、直ぐに粗悪なコピー商品が流通して商品価値が落ちるという循環は続きそうだと理解される。従って中国にソニーやホンダのような国際メーカーは育ちにくい状況と思われる。 だいぶ歩いたので68元(=1050円)の値段表示のある足裏マッサージを受けてから地下鉄で帰った。地下鉄は全て2元(=31円)の均一料金と安価であるが時刻表が表示されていない。終電が何時だか解らないなど不満も有りそうだが、中国通の人が言うにはダイヤ通りに走らないから時刻表は無用なのではという事であった。妙に納得する。 そして4日目は朝5時20分のモーニングコールで目覚め、ホテルを6時40分に出発する。もちろん日の出前である。帰りの飛行機は9時半に北京国際空港を飛び立った。窓の外には森の無い乾いた大地と小屋の集まったような村が点在していた。 中国は著しい発展途上にあるのは解ったが、旅の間は子供の姿を僅かしか見なかったように思う。帰路には「老いていくアジア」を読みながら近い内に福祉で急激に衰える可能性もあるのではとも思った。 しかし、人口の95%が貧しいが5%は豊かになった。その5%は13億に対して6500万人に成るのだから、既に日本人の半分程度は豊かになった、と胸を張っていたガイドの言葉も一面の真実である。僅かな成功者が膨大な数になることを考えると隣国として動向から目を離せない。企業進出も否定できない空気を僅かな旅の中で思ってきた次第である。 |