武士道の時代と現代 | ||
2008/04/22記 | ||
世界中で騒ぎが起きる中、長野市の善光寺で、同じ仏教徒としてチベットの僧侶への弾圧を考えると聖火リレーは辞退したい旨の発言の影響かどうかは明かではないが、21日の未明と思われる頃に国宝・善光寺本堂回廊に落書きがされていた。 いかなる意見や主張が有ろうとも言論で表明するべきで、長い年月を多くの人々で維持してきた国民の財産を破損する行為は論外である。 一方、前橋では全国都市緑化ぐんまフェアのために道路沿いに植えられたチューリップの花が切られる事件が相次いて起きている。これはチベットとは関係ないだろう。主張もなく、単なる馬鹿な憂さ晴らしをする者としか思えない。でも、どちらも程度が低い。 そもそも煙草のポイ捨てから始まり、コンビニ弁当の袋を車の窓から捨てる奴、高架下の柱やコンクリート壁にスプレーで落書きをする奴、さらには個人経営の商店のシャッターにも落書きする奴など、公共民間問わず景観を破壊し、被害を与える者の精神の程度がどんどん悪くなっている気がしている。 これらの行為をしでかしている者は、法律に抵触している自覚はあっても『罪』の意識がないとしか思えない。一昔前なら『お天道様に顔向け出来ない』という感情も年寄りから教育されてきていたのだろうが、今は本当の意味で無神論の日本人が増えているのかも知れない。 尤もキリスト教やイスラム教など絶対者である神を持つ宗教でも神に恥じる行為を多くしでかしているから、あまり宗教とは関係ないのかも知れないが、農業型定住社会を原則としてきた日本では『お天道様に申し訳ない』という他にも、『お互い様』とか、『お陰様で』とかいう相互に相手を思いやる感情を育んできた。 さらには物に対しても『もったいない』という感情で、出来るだけ大切に、そして有効に使う事を当たり前としてきた。底辺にあるのは神道の精神か、儒教の考えか明確ではないが、日本人という大きな括りの中で、美徳のなせる技と思ってきた。 今はそのような国民性を取り戻さねばならないと思う。 ギスギスしてきたこの社会では、相互信頼が築きにくい世の中で『人を見たら泥棒と思え』という感情の中でセキュリティーに関する費用が増えていく。さらには金だけで解決する問題では無い。 結局自分は何をしても良いんだという思いこみの人によって何をされるか解らない危険な世の中になっている。先日の岡山駅のようにホームの先端で列車待ちも、後ろを気にしなければ成らない世の中となってしまったのだ。 5千円札の肖像にもなった新渡戸稲造は当時世界的ベストセラーになった【武士道】をアメリカに住んでいる時に英語で執筆した。 その理由は,岬龍一郎氏訳PHP文庫)の序文によれば『宗教教育がない!それではあなたがたはどのようにして道徳教育を授けるのですか』というベルギー人法学者や、彼の妻であるメリー・エルキントンに『なぜこのような思想や道徳的習慣が日本でいきわたっているのか』と問われ書いたという事である。文面を読むと、その当時の精神風土の高さには感服するばかりである。 ちなみにこの【武士道】を読んだルーズベルト大統領が感動し、日本に対する理解を高めた結果として日露戦争でのポーツマス条約の調整という役割を果たした。 その結果として、戦争の長期化を防げた可能性が高いというメリットを考えると、新渡戸稲造に紹介された精神の気高さが、我が国の尊厳だけでなく存続に関わる問題と成っていったと考えさせられる話である。 今の日本は世界から尊敬を受ける存在なのか、もっと身近に木更津市民は日本全体や世界中から尊敬を集める常識人に育っているのか、そして大人はそのように育てさせているのか。 それを流れるニュースの中で感じていた。 |