みどりの日に思う
2008/05/04記
 世間的には連休のど真ん中になるみどりの日であるが、天候はどんよりと重く、私の心も反映しているようである。個人的なことであるが一昨日に我が家から嫁いでいった叔母さんが亡くなったためである。昨日は通夜で本日は告別式だった。
 
 さて、それはさておき今日はみどりの日である。ちょっと前まで4月29日がみどりの日で、今日は憲法記念日と子供の日に挟まれた法定休日だったのだが、昭和の日の設定により押し出されるように移動してきた名称の休日である。「緑」と漢字にしないのは色彩の緑でなく自然体系を象徴する意味の言葉だからであろう。
 我が家の近所では先月上旬に田植えも終わり、稲穂が順調に伸びている[写真は5月6日に撮影して追加した]。そろそろ周りの田圃からカエルの合唱が響き始めることだろう。生長するにつれ、稲穂を渡る風を視覚的に見る事が出来る環境は実に贅沢だと思う所である。
 そんな稲穂もお盆を待つことなく刈り取られ、その後、半年の長きに渡り田圃は休憩に入る。近頃では品種改良が進んだためか地球温暖化のためかは解らないが、早い年には7月中に稲刈りが行われる場合もある。高校生の頃までそのようなサイクルが普通だと思っていたが、進学のために引っ越した前橋市では6月頃まで小麦が作付けされ、その後に田植えを行い秋に稲刈りを行っていた。随分驚いたが、良く考えてみると自宅周辺が超早場米の産地だと気付いた。
 それと同時に、冬が寒い群馬で小麦と米の二毛作をしながら、房総半島では休んでいる状況に疑問を持ったものである。もっとも我が家の近所では海で行われる農作業的な海苔の種付けなどを行っていたので、人間が休んでいたわけではないことも付け加えておく。
 
 さて、話は唐突に変わるが日本が水を大量に輸入していると聞くと、エビアンなどのボトル飲料かと思うだろうが、実は農作物等の生産に大量の水を必要とするので、その生産物の輸入を通して間接的に水を輸入しているという話である。
 これは昨年夏に読んだ「地球の水が危ない」(高橋裕著:岩波新書)という本に書いてあった話で、総合地球環境学研究所の沖大助助教授の試算によると畜産物と農作物に姿を変えた水が年間744億トン(亀山ダムの総貯水量1475万トンの約5千倍、と言ってもピンと来ないから・・・・日本人約1億2780万人が500mmのペットボトルで毎日3190本も消費する量)を輸入していることになるらしい。
 さらに、これに含まれない木材資源や工業資源に変わった水も加えると、日本国内で使う農業用579、生活用164、工業用135の合計878億トンにほぼ匹敵する数字になる、と読んで考えたときに我が国は、我が町はこれで良いものかと悩んだ。
 
 昨今の原材料値上がりの中で、発展途上国では農作物の高騰による食糧不足で多くの社会不安が発生していると今日の新聞記事にあった。貧しい人に食料が渡らず、穀物から自動車の燃料が生産される時代なのである。
 背景には急激な人口増加があり、バイオエタノールの生産を止めても、多分全ての人に充分な食料が行き渡らず、それに相応しい農業生産を上げるまで開墾を進めると地球環境は回復不可能な状況に成るであろう。例えば南米のアマゾンを切り開いた大豆畑は地域の乾燥化を進めている。別の場所では技術の導入の結果として中流域での灌漑が充実した結果、通常時には河口まで流れる水が殆ど無くなった話も聞く。この場合に海産資源に与える影響は大きいだろう。農業活動は多くの面積を必要とするので環境に与える影響が大きいのである。
 長期的には国際的人口減少政策が求められるが、当面は現在存在する人々をどうするかという話である。
 
 自ら所有する田圃のうち、減反政策に従っているものは荒れ放題になっているので説得力はないかも知れないが、降水量や日照も多く、灌漑施設や農業機械も充実した我が国で農業生産を抑制する矛盾を感じる。超早場米を収穫した後の裏作で畜産用飼料を作り、海外からの穀物輸入を減らすことで、世界の平和に貢献するという施策があっても良いのではと思う。
 もちろん、その為には輸入飼料に対する課税と国内産品に対する補助で内外価格差を埋めるなど、ウルグアイラウンド違反になりそうな対応も必要であろうが、現状に対する問題意識を持つと枠組み変更まで必要ではないかと思うのである。
 
 みどりの日。曇天の中で田圃を見ながら、そんなことを考えていた。