情報過多社会に思う
2008/06/02記
 近年は個人情報の保護が当然の権利のように成ってきているので、住所と名前が記載されているだけの名簿でも流出すると大変な問題となる。その様な理由から卒業生名簿は作成されなくなり、地域の消防団には高齢者情報が入らず、5年に一度の国勢調査でも回収率や情報の精度は落ちる一方である。
 
 一方、選挙という洗礼を受ける議員という立場は、生年月日や住所などの情報は普通に流出している。さらに政治家は情報開示責任があると考える私のような議員は、HPで日々の行動や考え方、趣味など様々な物を公開してしまっている。
 
 意見も貰いたくてメールアドレスも公開しているのだが、そのアドレスに建設的な意見の数十倍という数の迷惑メールが届いてしまう。あまりに多いので、5月中に発信者に思い当たる者が無いメールがどれだけ届くのか記録を残してみたところ、サーバーのファイヤーウォールを潜り抜け、253通が届いていた。
 どのメールも比較的容量が少ないので通信障害を起こすまでに至っていないが、膨大な迷惑メールが連日届くようになるとパソコンの能力を超えてしまう日が来そうで心配である。
 
 インターネットの発達で情報を検索することが容易になった。しかし、多くの人々が玉石混合で様々な情報をアップしてくるので、その中から真に重要な物を見つけることが難しい。
 例えば木更津市の政策を調べようとYahoo検索を使った場合、
「木更津」では約10,500,000件がヒットする。
「木更津市」にすると約3,620,000件に絞れるがまだまだ多い。
「木更津市」と「政策」の2語で絞って約137,000件である。
さらに「福祉」を加え3語で絞っても約59,600件である。当然全てに目を通すことは出来ない。
 
 世の中を変えるほどの素晴らしい提言を載せているHPも有るのかも知れないが、多くの人がアクセスしないと検索上位に来ないため、膨大な情報の中に埋まっているかも知れない。人気上位は面白さが重要なので、学術的な意見やデータを伴ってじっくり考慮された意見などは埋もれやすい傾向があるようだ。
 動画のYou Tubeには毎日24時間を遙かに越える新しいデータがアップされているようだ。世界中のどんな人でもその全てを見ることなど出来ない。誰か発信力の高い人に広めて貰うまで情報は埋もれたままだ。
 
 ネット資料だけで無く、例えば何十名もが製作に係る膨大な予算に関する紙資料も、中に書いてあることの全て読みこなすことはほぼ不可能である。毎日繰り返されるニュースや新聞にしても上澄みだけを見ることは出来るが、深く掘り下げた深夜の特集を見たり専門書を読んだりする事は興味有る分野に限られてくる。その間に先端を走っているランナーの後ろ姿すら見えなくなっていく。
 
 様々な物が細分化、専門化してくる中で、そこから届けられる情報を重要だと見抜くことも出来ないのであるから、全てに無抵抗となり膨大な情報の中で無知がまかり通る事に成ってくる。
 知ろうと思えばそこに有る知識。でも膨大なメニューの中から何を選んで良いのか解らない現状。比較的信頼が置けるネット上のフリー百科事典であるWikipedia等をペーストコピーして論文を作ってしまう学生が増えている現況である。
 
 情報化の流れの中に、本当に必要な正しい情報が昔のように作成されることが無く、専門家から素人までが同じような手段で質的な落差が大きい情報を世の中に広げていく。さらには、誤った情報も堂々と流通しているし、いちいち否定されることもない。これだけ情報が氾濫するとそれを正しく見分ける目が必要だ。
 民主主義の死は無関心から始まるとよく聞くが、情報化の死も無意味な情報の氾濫の中で起きているのではないだろうか、と自らも意味の多くないHPをアップしながら思っていた。
 
 ※6月6日に知人の指摘で若干の加筆修正を実施。