中学生の内申点を考える
2008/07/26記
 地元の神社の宵祭に参加して、高校を卒業した長女と中学生の長男を持つ友人から意見を頂いたので、それに自分の考えを追加して記載したい。
 
 現在、高校入試では半数が内申点を重視した推薦入学を行っており、殆どの生徒が受験を行った結果、推薦に不合格となった生徒による試験での入学試験が行われているという事である。
 子供の居ない私には、自分の受験の頃からの変更はニュースで聞いていたがそれによる問題点などの実感を伴わないで居たし、内申点を重視する試験で、日頃真面目に取り組んでいる生徒が評価されたり、試験の本番では緊張して実力が出せない生徒を救済する手段として、どちらかというと好意的に評価していた。
 
 しかし、友人が指摘する大きな問題点は、まず先生に気に入られるように従順になり、生徒の覇気が無くなるという事である。振り返って自分が中学生の時を考えると、先生の教える『解釈』に対して同感できない部分は意義や意見を出していたように思う。中学生なので大人の対応をするというような気遣いは全くない、厳しい言葉で発言したかも知れないが、今ではそれは内申点のマイナスに繋がる可能性が高いのだと聞くと、たしかに問題だ。
 日本が1960年代に経験した学生運動を繰り返さないよう、大学にも規制を増やし、企業と伴に良質で従順な労働者を生産して供給する体制を作っているという実感は、学生運動の消滅した学生時代に経験していたが、それが形態を変えて中学まで拡張されているという事は考えすぎであるかも知れないが、現象としてはデモもストも起こさない、反抗的でない国民が増えている。
 
 次の問題点は、内申書を採点する先生に嫌われないように、親が神経質になり、先生に気を使いすぎる余り、社会経験の無い先生を甘やかせて天狗にさせ、結果として駄目にしているのではないかという事である。
 実際には家庭の多くの問題が学校に持ち込まれることで多忙を極め、精神をすり減らしている教師が多い事は承知しているが、中にはそのような例が存在している可能性は否定できない。
 一方でモンスターペアレントと言われる、およそ非常識な要望を学校に要求する問題親も存在するが、その場合で親と子は別の人格だと理性的な区分を完璧に行える先生以外は、自然と内申点が低い方になるだろうし、それは学校から阻害される家系の固定化という問題にも繋がるのではないかという危惧もある。
 
 もう一つの問題点は、殆ど全ての生徒が推薦入試を受けて、不合格となった半数が一発入試に望むという形態である。推薦入試で不合格という烙印を押され、挫折感や焦燥感を味わう子供達を半分も生む形態は変ではないか、という指摘である。
 私も友人も内申点など評価が無い時代を過ごしてきた。友人は授業より部活動に力を入れ、私は学校行事より旅をする事を優先してきたが、それも全て本番での勝負を信じていたからである。その時代をのびのびと過ごした事は間違ってないと信じている。
 しかし当時の自分を振り返り、現在の制度に当てはめると、多分良い内申点が付いていないだろうから一度不合格を経験しての再入試かと思うとやるせない。
 大学受験の頃も推薦入試を決めた友人や、早々と目標の私立大学の合格を決める友達が多い中で、最後に回る国立大学は精神的にしんどかった記憶がある。あの状況を今ではみんながやっているのだろう。不憫な事である。
 
 様々な問題点を考えて大人達が制度設計を行うのであるが、子供達をどの様に育てようとしているのかという視点を忘れては成らないと思うと同時に、自分の立場で何が出来るか、宵祭の喧噪の中で考えていた。