満足と活力について考える
2008/08/03記
 甲子園で鳥取西高校と木更津総合高校の試合を見ての帰り道、豊橋から一度乗りたかった飯田線に乗り、長い時間を山の中を進む電車で過ごした。乗り換えの天竜峡駅で時間があったので周辺を散歩すると『天竜峡再生元年』という幟やポスターが目に付いた。店の人に『何か大きな災害でも有りましたか』と聞いたが、災害からの復興と言うことではなく、著しく減った観光客を取り戻すための再生元年という意思表示という事であった。
 昭和2年に東京日日新聞などにより行われた日本八景を求める人気投票で渓谷の部のダントツ1位であった事から考えると衰退は著しいという嘆きも解る。ちなみに山岳の部の3位が清澄山だった。
 
 バブルの頃、鬼怒川や熱海のような温泉地で巨大ホテルが林立したが、その後の景気低迷で地域経済の疲弊は著しく、多くの施設が封鎖されたり売却されていった。現在、人気を保っている所を考えると黒川温泉や野沢温泉のようにバブルに踊らず身の丈に有った運営をしてきたところである。天竜峡の問題点を把握している訳では無いが、再び大勢の人を求めることは時代に合致しているのだろうかと疑問になる。
 規模拡大を行わない地域では、質的な向上を常に目指しながら一方で規模には満足してきた訳であり、この事は地域の活性化を考える上で重要な視点ではないかと思う。
 
 日本では人口が減少に向かっているが世界全体では爆発的な人口の増加に面している。財産を持たない多くの貧しい庶民が一生懸命働き、様々な物を手に入れていく社会は活力に溢れ、世界の多くが注目するようになる。具体的には現在の中国やインドであり、その成長性を見込み多くの企業進出がされている。
 一方、日本の地方都市では家も車も家電製品も生活を営むに不自由を感じない程度に行き渡り、特に欲しい物が無い環境になっている。もちろん吐喝喇列島や道北の内陸地のように同じ日本とは思えないような地域もあるが、都市部では医療や雇用で不足はあるものの、物流や情報の発達で地方にいても都会と大きな差がない生活が出来る。
 
 木更津を考えた場合、基本的な生活レベルは都会と遜色無く、物価が安い分だけ生活にゆとりは生じているだろう。文化的な満足を得ようと思えばアクアラインを渡れば良いだけだと、日常の中に不満の声が多いわけではない。あえて言えば近隣都市と公共サービスの差があることが私に寄せられる不満の大きな点である。
 
 最近は「もったいない」とか「おかげさまで」という日本的な精神が海外で見直されている。日本人の考えの根底に「足るを知る」という、過度に欲しない精神と、有限の中で多くの事象に生かされているという認識があるのではと思った。だから多くの事象、物や自然環境に神々が宿る、八百万の神の信仰が残ったと思う。
 一神教が多い世界では信仰面からのアプローチは難しいが、現在は地球環境問題が認識され、地球が有限であることを欧米でも議論されている事は良いことである。
 
 しかし皆が「足るを知る」世界に入ってしまうと購買力が低下し、経済の活性化が滞る事になる。経済が活性化しないと税収も伸び悩み街の賑わいも失われてくる。購買意欲や生産性が高いところを求めて企業は進出するものである。適当に厭きて更新して貰わないと物品は売れないと言われるが、地球環境には逆行する話である。
 
 満足の中で過ごす活力の低い社会と、不満の中であがき活力に充ちた社会のいずれが素晴らしいものなのか、どの程度のバランスを目指すべきなのか、そんな事を飯田線に戻り、本を読んだり時々寝たりしながら考えていた。
 なお、文章にまとめたのは4日であるが、メモを取った3日の日付でHPにはアップすることにした。