琉球という生き方を思う
2008/11/02記
 先月末に建設常任委員会の行政視察で沖縄県を訪れた。私にとっては6回目の沖縄になる。私が沖縄県に来る場合は長期滞在をする事が多いので、訪問の回数より日数を数てみると、1992年に16日間、1996年に3日間、2002年から2003年の年跨ぎで11日間、2006年には12日間、そして2008年は2月に2日間と今回の3日間の5日であり、総計は46日となることが解った。多くが自転車の旅であるが、改めて振り返ると随分長い時間を沖縄に居たものである。
 
 さて、そのような沖縄を訪ねる度に何時も思うことは、ここは大和朝廷とは別の歴史記を刻んできた『琉球』であり、1972年5月にアメリカ合衆国から施政権が返還されるまで琉球政府も存在していた、有る意味では大和と連邦を結んでいる国家であるという事である。
 現に琉球王国はタイ王国のアユタヤ遺跡などでは日本と別国家に扱ってあるし、清朝までの歴代中国皇帝に朝貢していた歴史がある。明治新政府は清朝との間で沖縄島と周辺の島々は日本で、宮古島と石垣島の周辺の島々は清とする国境を設けようと提案したが清朝に断られたりもしている。
 なお、ちなみに中国政府が現在のチベットやウイグルを統治する根拠である清朝への朝貢の有無を言われると、日本と中国の国境は吐喝喇列島と奄美大島の境界まで移動してくるし、明の皇帝に足利義満が朝貢したことを考えると倭族自治区になりかねない(でも今回の話題とは関係ない)。
 
 沖縄県の経済の内情を考えると、沖縄特別措置法で国からの補助金による公共事業と観光と基地関連事業で成り立っているが充分な雇用とは言い難い。しかし日本の一部であることで経済が回っている認識は高く、独立という動きは極少数を除いて有り得ない状況である。個人的には、第二次大戦の苦痛を考えれば、海軍の太田中将の『沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』と有るように特別の配慮があることに異存はない。今回の行政視察でもかれこれの差があることも了承しよう。
 
 沖縄県をデータの上から眺めてみると、全国最低の県民所得、最高の失業率、最低の持ち家率、全国学力テストの平均点が全国最低など、悪い数値が並ぶ一方、平均寿命が全国最長とか出生率も全国最高など、素晴らしい数値も並ぶ。このような沖縄県の特異性は歴史的に別の国家という要素は無視できない。
 しかし、仕事や修学のために出ていく県民より国内各地から転入してくる人が多いという社会増の状況にある大都市圏以外の唯一の県であることを考えると、県の特異性ではなく、沖縄を知ってしまった多くの人がマイナスよりプラスが多いと判断しているのだろう。就業や所得というのは一面の評価に過ぎないと言うことを私も綺麗な海を見ながら実感する。
 
 最近読んだ本である『子どもの最貧国・日本』(山野良一著:光文社新書)等では、一人親の子育て時期が貧困であると児童虐待の発生率が高くなるとか、将来に渡り高等教育を受ける可能性が低くなることなどをデータを元に検証してあった。それは非常に説得力を持つ内容であるのだが、一方で私の頭には常に琉球という生き方があった。
 
 全国平均に比べれば所得は低いし、修学や就職の選択肢も少ない。それでも子供は大勢産まれ、おじいやおばあが元気に暮らす国、琉球。本当に豊かなのはどちらであろうかと自問する。
 「なんくるないさ(何て事無いさ)」の精神は、琉球王国だけに限られたものではなく、本来日本の地方の何処にでも有った気持ちではないのだろうか。忙しい日々やゆとりのない社会は何時の間にこれほど浸透してしまったのだろうか。追いつめられて自らの子供に暴力を向けてしまう事を回避する方法は経済援助以上に重要なことが有るのではないか。老人の孤独死が行政の責任といえるのだろうか。それらを琉球に行く度に思う。
 
 旅先で仲良くなった本州からの移住者は、沖縄県では納期や品質に問題有るものが多い、と苦情を言いつつ沖縄県人であることを辞めようとはしていなかった。というより楽しんでいた。
 同じように木更津人であること、房総人であることを楽しみ、この地で子を育てて年老いていくような環境を創ることは困難なのだろうか。東京湾の鉛色の海を見ながら考える日々である。