文化祭の日々で考える
2008/11/04記
 今年は文化の日が月曜日なので11月1日から3日までが連休となり、公民館にとっては文化祭を3日間に渡り展開する事が出来る日々となる。
 
 巌根西公民館の文化祭が開催される1日に来賓として呼ばれ、司会の文化祭実行委員会副委員長の本多さんから挨拶を求められたので文化に対する考えを簡潔に話した。
 解りにくいかなと思ったが、良い話だったと言っていただいた方も居たので、その方のリップサービスかも知れないがここで再度趣旨を記載したい。原稿を読み上げたわけではないので、以下に記す内容は発言した内容と一致しないことを了承いただきたい。
 
 『人を区別する要素として考えられるものは、氏名・性別・年齢・職業などの個人情報があり、また、容姿や体格など外見上の特徴があります。しかし、人と人との関係でたがいに影響し合うことは、その人の持つ教養や知識などの文化に負う事が大きいと思われます。尊敬や信頼は相手の持つ文化によるものと思います。
 さらに、人間社会という集団を考えた場合、その地域のお祭りや歴史と言った文化の蓄積が、地域の精神的豊かさを育む事につながると考えられます。
 千葉県から木更津市が引き継いだ県立上総博物館も先月1日に、木更津市立郷土資料館「金のすず」として開館しました。そこには、木更津が古くから重ねてきた文化を陳列してあるので間だ見てない方は大田山まで行き、一度ご覧になって下さい。
 ただ、文化は過去にだけ有るのでなく、今この様な文化祭などを通して積み重ねていくものであります。本日開催される文化祭が、この地域の豊かさにつながって行きますので、地域住民の一人として感謝申し上げます。』

 
 自分の話を解説するのも変だが、個人的に仲良くなるとか信頼し合うという関係が生じる場合は、そこに共通の趣味とか目標が有る場合が多いものと思われるし、その趣味にも知識の深さや技量の高さなどの差で優劣が生じる事はよくある事である。
 考えてみると動物の間では力の優劣で序列が決まる事が殆どで、極希に猿の世界では統率力も要求されるようだが、人間の世界のように文化の差で序列が決まることは有り得ない。そもそも犬や猫に汎用的な文化と言えるものが有るとも思えない。
 
 人は、動物の中で、唯一知ることを楽しむ事が出来る生き物だとは良く聞く話である。だから権力や武力に関係なく、天下人の秀吉が利休の弟子になったり、佐藤栄作から中曽根康弘に至る歴代首相が安岡正篤を心の師とする事が生じたものと思う。
 茶の道や儒教的道徳だけでなく、美術や音楽や書と言う芸術だけに留まらず、スポーツやカラオケ、はては鉄道知識とかフィギアなどのオタク要素も広く文化であり、私が理解出来ないものも含めて心の豊かさが有る世界を天下人でなくとも喜びたい。
 
 第二次大戦中に原爆投下の候補地に上がった京都に対し、日本研究者から文化を守るために反対意見が出たと聞く。東京から距離がある都市の中で鎌倉市の人気が高いのも膨大な文化財の影響であろう。この様に文化は強力な武器になる。ただ現在の武器は膨大に広がる文化の中で、何が武器だか解りにくい。私が挨拶で引用した郷土資料館は強力な武器にはなりそうもないと感覚的には思っている。
 
 近年の世界を変えた文化はマルクスの『資本論』という本であり、ビートルズの歌であったと思う。北海道の風景は前田真三という写真家により発見され観光地となり、川越は小江戸という切り口で人を集めている。我が市も木更津キャッツアイシリーズで一時的な賑わいを見せたことも有った。公民館運動から生まれるような話ではないが、文化祭が開かれている3日間を巌根西公民館、巌根中学校などで過ごしながら、様々なことを考えていた。