『恥』の喪失を考える
2008/11/27記
 第二次大戦中に敵の分析が必要だということでアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト等により日本の文化が研究され、それがまとめられたのが有名な『菊と刀』であり、そこでは日本の精神文化を『恥』の価値観で分析していた。
 随分昔に読んだ本なので詳細は忘れたが、欧米では社会常識や法律に抵触するか、さらにそれが正義か否かで行動規律が決められることに対して、日本人は恥に感じるかどうかで行動が決められるというような分析であった。
 
 たしかに「みっともない」とか「恥ずかしい」、「世間から笑われるでしょう」という言葉の中で育ってきたような気がするし、そのような言葉が絶対的な価値観でないことに気付き、非論理的であると反感を覚えていた時期もあった。
 しかし、社会で揉まれるうちに、その考え方の背景に相手の気持ちを推し量る能力や歴史的な価値観の裏付けなどが存在して、それが調和の美学に通じていると感じるようになってきた。
 
 新渡戸稲造の『武士道』は中学生あたりで読んでおくべき本の1冊だと思う。そこには日本の精神背景が欧米社会に向けて書かれているので、現在の日本人が読んでも理解しやすいが、逆に昔の志の高さに圧倒される思いもする。
 
 死ぬべき時に死ぬ勇気、という武士道の精神を拡大解釈して行った結果、帝国陸軍の死を恐れぬ突撃になり、理論より精神性(さらに言えば根性や度胸)が優先される間違った方向に進んでしまった歴史があり、その結果としての敗戦を受け、戦前の価値観を大幅に否定してきた。
 しかし、化石燃料も使わず天然エネルギーだけで完結し、都市には過密な人口が集中し、鎖国状態でも独自の文化を発展させていく中で身につけてきた日本人の知恵の多くは大切にせねばならないと思うのだ。
 
 贅沢や浪費を恥じる心、人様への迷惑を恥じる心、自らを律することが出来ず感情に流される自分を恥じる心などが有ったために、江戸末期に日本を訪れた欧米の人達が、どれほど日本人を尊敬したか、その時代の旅行記には詳しく書かれている。
 その結果として生じていたものが綺麗で治安の保たれた都市であって、決して膨大な武士階級による抑圧や治安維持活動によって保たれたものではないと認識している。
 
 江戸時代が理想郷などではなく、飢饉の時の生命の保証は貧弱であり、絶望的な貧困も存在したし、職業選択の自由も思想信仰に対する自由も少なかった事は事実である。もちろん民主的に政策を選ぶこともできないし、お伊勢参り等を例外として移動や居住の自由も大幅に制限されていた。しかし、その頃に培われた精神の良い部分は継承するべきではないかと思うのである。
 
 傍若無人な振る舞いを恥じることもなく、浪費も法違反も恥じることなく、弱いものを見捨てる自分を恥じることもなく、充分働けるのに閉じこもっていることを恥ずかしいとも思わない人々。そもそも恥を意識しなくて良いというメッセージを出し続けている社会。そしてその様な恥じない人々のために多額の税金を消費する社会。
 何か根本的なところで間違いをしてきたのではないだろうかと思うことが多くなったのは、既に青年期を通り過ぎたせいではないと信じたい。