日米開戦の日に思う
2008/12/08記
 今日は、1941年にアメリカ合衆国に宣戦布告を行ってから67年目である。一部では戦争特集番組も有るが、もはや開戦の日を記念して何かを行うことが少なくなっている。そもそも、第二次大戦の全貌を考えると、宣戦布告もないまま泥沼の戦いになっていった中国での戦いがそれ以前から続いている。
 発端をあえて言えば1931年9月18日の柳条湖事件(満州事変)から続く長い戦いの中で、敵の枠組みが大きく変わった記念の日というべきだろう。
 
 元航空幕僚による戦後史観に賛否が集まっているが、戦後63年が経過しても、まだ冷静に歴史として分析できない人々も多く居る問題だと改めて思うところである。
 先月30日に出席した敬老会は75歳以上の人達を招待していた集まりであるが、計算すると若い人でも1933年(昭和8年)以前に生まれた方で、中には戦場に出た人も居たことであろう。戦中戦後をしっかり記憶に残している人達であり、今の世界第二位の経済大国になるまでの高度成長を見て、バブルの崩壊の頃に一線を退いた人達である。高度成長以降の世代としては、その苦労を理解するためにも、過去を出来る限り正確に把握しなければならないと思っている。
 
 ちくま新書の『東アジアの終戦記念日』という本を最近読み始めたが、この作品に出会うまで8月15日が終戦記念日という感覚に違和感を持っていなかった。知識としてはその日以降に千島列島や樺太でソ連との戦闘が続いたことや、台湾からの撤退は非常に遅くなったことを知っていたが、矛盾点として考えなかった。
 本から引用すると次のように時が流れる。
 
 8月14日 ポツダム宣言受諾通知
 8月15日 玉音放送(韓国、北朝鮮の光復節)
 8月18日 占守島でソ連軍との戦闘開始
 8月20日 樺太の真岡市で市民を巻き込んだ市街戦展開
 8月24日 千島や樺太方面で日本軍の武装解除
 9月 2日 降伏文書調印、米英では対日戦勝記念日
 9月 3日 ソ連、中国の抗日戦勝記念日
 9月 7日 沖縄守備軍代表降伏文書調印
 9月12日 シンガポール・マレーシアで日本軍降伏
 9月13日 タイ・ビルマで日本軍降伏
10月25日 台湾総督による降伏文書調印(台湾の光復節)
 
 国際標準では9月2日か3日が戦争の終結であるのに対し、日本人としては天皇陛下による玉音放送で精神的に戦争を終結させた日をもって終戦の日としている事が解った。本の著者はアジアとの歴史の共有が行われていないことを指摘している。
 なお、沖縄戦終結といわれる6月23日は牛島司令官が自決し組織的な戦闘が終わった日であって、戦闘は延々と続くのである。ひめゆり部隊の大多数が亡くなるのはこの日以降である。
 台湾では日本の敗戦後も台湾総督による安定した統治が2ヶ月以上も続く。この情景は台湾映画である『悲情城市』の冒頭でも出ていたように記憶している。
 
 制度的に戦争状況が終わるのは1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約署名を待たねばならないし、その条約が発効するのは1952年4月28日だ。その年の2月10日に吐喝喇列島は本土復帰を果たしているが、講和条約発行時に奄美や沖縄はアメリカの占領下に置かれたままであったので、沖縄県では4月28日は屈辱の日という位置付けである。
 奄美が本土復帰を果たすのは1953年12月25日、小笠原諸島が返還されるのが1968年6月26日である。そして1972年5月15日まで沖縄県での戦後統治が行われていた。
 さらには、今でも国境確定がしていないロシアと平和条約を結ぶまで本当の戦争が終わったことにならない立場の人には、未だに第二次世界大戦は続いている。
 他にも戦後補償や後遺症、中国残留孤児など、当人にとっては戦後処理の済んでいない問題は続いているのである。そしてそのような当事者が一人、また一人と世を去っていく。
 
 次の世代としてやらねばならない事や、理解し合わねばならない事も沢山ある事も解っているが、まずは多方面の知識を付けておかないといけないな、と日米開戦の日に本を読みながら思っている。