自治の限界を考える
2009/03/09記
 先月28日に行った公民館の集いで思ったことを予算の整理をしながらまた思い出し、活動記録で『班別討論会になると参加者に不快感を与える議論を私が展開するのではという自覚があった』という記載に対する解説も少なかったとも思ったので今更のように記録を行うことにする。
 
 公民館の集いで思った違和感は、講師に公民館活動の肯定意識が強く、市は公民館を設置せねばならず、社会教育は公民館によって行われなければならない、という方向の議論になっていた事である。自分的理解では、市は公民館を設置出来るし、社会教育は公民館で行うよう勤めるべきだ、という程度である。
 平成18年制定の教育基本法でも第12条に『個人の要望や社会の要請にこたえ社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない』、第2項として『国及び公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会の提供及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に勤めなければならない』と決められているし、公民館の数と規模の問題や社会教育の質と量の問題まで定義されているわけではない。
 さらに法人会や青年会議所等の多くの団体が社会貢献活動を行っており、その中には社会教育的な行事も多く有るし、地区や自治会などは自前の集会所で様々な活動を行っているのだが、社会教育を公民館活動の中だけで定義するような議論にも違和感を覚えてきたのである。
 これはその前提に、公民館活動も減少させないと危険だという意識が有ったことも事実である。16館も有る公民館を全て50年ごとに更新すると考えると3年に1館程度のペースになるというハードの限界と、税金を使ってカルチャークラブを運営するというソフトの面に疑問が生じているのだ。
 
 ローマクラブが地球資源の有限性に着目し『成長の限界』を発表したのは1972年の事であった。まだまだ世界は華やかな成長の途上にあり、その意味を確認し始めたのは地球環境問題が深刻になって来た近年のことで、世界最大の資源消費国であるアメリカ合衆国が方向を変えたと感じられるようになるのはオバマ大統領の誕生を待たねばならなかった。
 市議会議員として自治体の責務を考えていると、公共負担率の有限性を考えることになり、成長の限界ならぬ『自治の限界』というものを思わざるを得ない。それは、今までの議会で質問してきたように公共財産も維持管理や更新の費用負担を考えると所有の限界という点にも行き着く。公共サービスや福祉についても負担する側の支出限界を考えると質と量の限界を考えなければならない。
 
 具体的な事例を記載すれば、既に市道の延長は900kmを越えており、市民一人当たり7km以上の延長になっている。収入に占める個人の税率などの前提を無視し単純に考えると一人で7kmの道路維持費を負担せねばならない。30年ごとに補修が必要だと考えれば個人で毎年240m程度の道を直す負担をする必要があるのだ。
 他にも橋や下水道などの社会資本や消防車両等の資機材、公民館や学校などの建築物など維持管理や更新が必要になる公共財産は限りなく多い。その上、開発行為等に伴い年々公共財産は殖えていく状況にある。さらには、地方分権という名目で国や県から移管されてくる財産も多く、高度成長期頃に出来た多くの財産は、いつ負債にもなるか解らない状況にあるのだ。
 対処方法として考えられるのは管理程度を下げて老朽化と安全性低下に耐えるか、公共財産の数量を減少させることしかない。本市を含め殆どの地方自治体は前者を選んでいるので老朽化による問題が増加しているのである。
 
 多様化、高度化する住民ニーズという声が良く聞こえて来るが公共で負担するべきか疑問に思うことが多いことも事実である。
 例えば最近受給者が増えている生活保護であるが、実際には困窮者の2割以下しか利用していないと推計されるという調査結果が有る。人権の尊重や社会の秩序の維持などを考えると国籍や年齢性別を問わずに全ての人々に文化的で安定した生活を与えるべきであると思うが『最低限の生活』の定義を無制限に上げていくことが出来ないことも明確である。
 高度化する住民ニーズの中には美術館、動物園、観光施設など数限りないものが有る。人口12万人の都市が所有すべきものなのかという視点を持たなければ都市経営は出来ない。
 
 右肩上がりの時代が終わり、その頃の財産が負債に変わる前に処分を考えなけれならない時を迎えていると私は自覚している。ただ多くの分野で現状のままであることに対する問題意識が無いことに危惧も感じている。
 予算審査委員会の中などで、言いにくいような事を追求するのも議員の仕事だと割り切り、憎まれ役を務めようと思いはじめた。