公務員の段階を考える
2009/03/27記
 橋本知事が国の直轄事業に対し、事業決定の権利を全て国家が握りながら地方自治体に1/3の請求を回すことは北の新地のバーでもやらないような「ぼったくり」だと発言したことがニュースで報じられている。
 国の事業は高コスト体質になっているので、地方で必要なことは地方に任せた方が今必要な事業を適切に遂行できるという主張だと聞くと基本的には同意できる。
 ただ、事業の遂行に当たっては国庫補助を受ける場合は、その採択権を国が握る以上、陳情行政が続くことになり、まだまだ効率的に成っているとは思えないのである。
 
 さて、そんな大阪府と府下の市町村との関係を知事自らが見直しているのかという点が気になった。国と県という力関係が、似たような構図で県と市の関係になっている事も有るだろう。
 
 国土の均衡有る発展という事を考えると、一度税金を国が集めて、それを大きな視点で傾斜配分するという事は重要であろうし、ネットワークが重要な高速道路や新幹線等についても、現在は民間会社になっているが、元々は国家事業で進められてきた。
 同様に幹線道路や河川の整備などは市町村より県の事業に成っている事が多く、市町村の側も自らの事業化とするより県による整備を求める声が多く出される。それは事業に対する予算や人的措置が市町村に不足していることが大きな理由であるが、県職員の中には市町村には能力がないと考えている者が多くいるだろう。
 そして国家公務員の多くは県職員は能力が足りないと考えているだろうし、私自身も道路公団に居た頃には、そのような発言をする人々を多く見た。確かに県や市町村では大きな事業を行った経験が不足している場合が多いが、決して能力や人格が低いわけではない。
 
 しかし、国家公務員(何故国家職員と言わない?)は県職員を見下し、県職員は市町村の職員を軽く扱うケースが多いように思う。それが顕著に現れるところは組織間での人事交流で、県に出向する市の職員が部課長として行くことは極めて希であるが、県や国から来る職員が部課長となることは当然のように行われている。
 その結果、多くの市の職員は県が決めることに異論を挟みにくくなり、国の機関には顔色を伺うようになる。もちろん骨のある職員は居るし、正論を主張して憚らない気概を持つ人もいるが比率としては少ないのではと感じる。この結果は市に不利益をもたらす場合も多いのではと考える。
 目先の問題では県が施工主体となる金田西区画整理事業に対して市の職員が一層の合理化を主体的に進めてくれるように願っているのだが大きな成果が聞こえてくるまでには至っていない。
 
 現実を直視していない意見かも知れないが、公務員の間に段階意識がある限り、真の地方分権など担うことは出来ないし、個性有る自治体の運営など遠い夢になるだろう。
 もちろん、政治もそうであり、市議会、県議会、国会でアップダウンの意見だけが届く世の中でなくボトムアップ、さらには水平な議論が交わされなければ成らないだろうと考えながらも、私自身も身の回りを見渡して動けない状況でもある。