桜の花の下で思う
2009/04/05記
 今年の桜は2月から3月にかけての気温が高くて4月を迎える前に散ってしまうのではないかと心配していたが、幸いなことに3月下旬に寒波が訪れ、この週末は綺麗な花を咲かせ太田山や矢那川で開かれている桜祭りの会場を彩ってくれた。例年は蕾か葉桜になって居る場合が多く、今年の関係者は当日の天気が良かったこともあり安堵しているものと思われる。
 
 それにしても、これほどピークの時間が短く、直ぐに満開になったかと思うと散ってしまう花をこれほど愛おしむのは何故だろうと思う。新渡戸稲造が『武士道』の中でも散り際の美学を尊ぶ日本人の感性を象徴しているような事を書いていた記憶もあるが、戦後教育を受けた世代にはその感性が有るとも思えない。既にDNAレベルで染みついてしまったのだろうか。
 
 江戸時代から日本人の品種改良という能力は冴え渡り、その頃完成された染井吉野が多くの場所で幅を利かせている。近年では河津桜に人気が出てはいるが染井吉野には及ばないだろう。
 熱帯性の植物である米を北海道で栽培できるように改良し、花粉の飛ばない杉を作り出す日本の農業技術水準を持ってすれば、3月の初旬から4月下旬まで花を楽しめる桜ぐらい作れるだろう。
 
 明後日の火曜日には多くの小学校で入学式が行われることに成る。天気予報は今の所「晴れ」のようである。新しい生活を祝うように咲く桜の前で記念写真を撮れれば良い思い出に成るだろうと思う。今日もラジオからは多くのサクラソングが流れている。目を閉じれば桜の花の下の想い出が幾つも蘇る。それは一瞬であったが故に尊い記憶に成っている。やはり、パッと咲きパッと散る染井吉野の方が季節を感じさせるという事で、長く楽しめるように品種改良は必要ないのかも知れない。桜の花を見ながらそんな事を考えてきた。
 
※背景が濃すぎて読みにくいという指摘を受け薄くしました。