貧困問題を考える
2009/04/14記
 リーマンショック以後の急激な経済の落ち込みの中、年末に解雇され社宅を追われた人向けに、厚生省の正面となる日比谷公園で年越し派遣村が開かれた事が2009年を迎えるに当たっての象徴的な出来事であった。現在も就職状況は好転していないため、象徴的な風景は無くなりつつあるが問題は深刻なままである。
 
 それらのニュースを見ている中で気になったことは、マスコミの捉え方が偏っているという事情もあるだろうが、そこに流れ着いた多くの人々の所持金がほんの僅かであった事である。同様にその頃に多く報道されていた窃盗等のニュースも犯人の所持金が僅かな例が多かった。マスコミが世論誘導をしようとしている、と言う色眼鏡を掛けずに見ると、せめて交通費が有る段階で故郷に帰るとかの対応が出来たのではないか、と思っていた。
 また、ネットカフェ難民と言われているものに対しては、地方都市の古いアパートに住めば遙かに少ない生活費で衣食住は確保できるのに何故都会を離れないのだろうと思っていた。
 そう思う背景には、今から26年の学生時代に月6千円の4畳半に住んで自炊をし、月額4万円程度で日々を過ごしていた記憶がある。物はなくても貧しさを感じた記憶は余りない。
 また現在でも、言葉通り自力で家を建て、月々のまとまった収入が無くとも、北の地域社会の中で楽しく生きている友人が居ることなどから、都会の中での貧困を何故選んでいるのだろう、と思っていたのである。
 
 ところが先月、派遣村を仕掛けた湯浅誠氏の「反貧困」という本を読んで考え方が変わった。湯浅氏は貧困状態の人は「五重の排除」が働いていると分析している。抜粋すると@高度教育課程からの排除、A企業福祉からの排除、B家庭福祉からの排除、C公的福祉からの排除、D自分自身からの排除である。
 @は貧困の連鎖という形で現れ、A〜Cについてはセーフティネットの破綻という形で現象を把握して問題意識を持っていたが、Dの視点を私が持っていなかった事に気付かされたのだ。
 その「自分自身からの排除」とは貧困は自己責任だという論によって追いつめられ生きる意味を見失った状態であり、湯浅氏は「溜め」が無い状況であることを看破した。「溜め」とは金銭や精神的な余裕だけでなく人間関係や将来の可能性等によって心が干上がる状況までの余裕である。だから溜がない人は失業や疾病等によって直ぐさま深刻な状況に陥ることになる。
 一方、過去の自分や、自営業者や勤め人とは違う生き方をしている我が友人も多くの溜めが有り、単なる経済状態だけでない深い世界で貧困状況と遠いところに居たのだったと今更ながら気が付いたのである。
 
 セーフティネットについても、一般的に言われる、@他の仕事で生活が成り立つという雇用のネット、A失業保険等の社会保障のネット、B生活保護等の公的扶助のネットの下に、C家族による支えという家庭のネットすら得られなかった場合は、D刑務所に入居する事で衣食が足りるようになると考える最終的なネットと割り切る者が存在する、と分析しており、一読に値する本である。
 
 若く健康なのに生活保護を受けるような者は甘えていると言う議論が有り、社会保障にただ乗りしている者が多いという声は良く聞くところである。貧困に陥るのは自己責任だという声も聞く。湯浅氏は、多くの人々は自己責任を理解して、最後の最後まで人の世話にならずに頑張ろうとしていると指摘する。だから所持金が底を付くまで頑張り、絶望の中から犯罪に走るか、社会と離別してホームレスになるか、自殺を試みるか、等の状況が生じるのであると。
 一度ネットの網目から落ちた存在には金融機関も融資を行ってもらえず、結果として闇金融からしか生活費を工面出来ない状況になり、多重債務等の状況に落ちていく貧困者も少なくない事もこの本に記載されている。
 追いつめられ、落ちていく前に救済が重要なことは理解できるが、過度の福祉はサッチャー以前の英国で経済の停滞を生じさせたように、健全な社会にとって適度な公的補助はどうあるべきかという悩みが依然として残っている。
 
 そんな中で3月24日に東京12チャンネルから放送された「ガイアの夜明け」では『マイクロファイナンス』と呼ばれる貧困層向けの小口金融や『ソーシャルレンディング』と呼ばれる個人間の融資が取り上げられていた。
 『マイクロファイナンス』の例としては、2006年にノーベル平和賞を受賞したバングラデシュのグラミン銀行が有るが、日本国内の実例として「生活サポート基金」という、単に金を貸すだけでなく相手の生活設計を一緒に見直して生活再生を図る金融機関が紹介されていた。また、『ソーシャルレンディング』の例としてはインターネットで新たな事業を行いたい借り手とそれに共感して資金を供給して金利を得る貸し手を結び付ける会員制サイトの「マネオ」が紹介されていた。どちらにしても社会的正義を自覚した経済人による行為であるが、行政の補助より責任の所在が明確になり、融資を受ける側のモチベーションも高まる良い対応と思えた。
 
 公共が行わなければならないことは、セーフティネットの3層目である公的扶助の部分であるが、それ以外にも雇用の創出によって貧困を少なくする方法も考えるべきであろう。
 ニューディール政策のような巨大な事業だけで無く、例えば高齢者の仕事を仲介するシルバー人材センターのように、比較的健康なのに保証人等の問題で就業が不利な立場の人を積極的に雇用する組織を地域のレベルで設ける事は出来ないだろうかとも思う。
 その組織には民業を圧迫しない範疇の軽微な失業対策的事業(例えば公共物の落書消しやポイ捨ての清掃作業)を請け負ってもらうことで、扶助費としての支出から地域が良くなるための投資に変えれば、納税者の理解と受給する側の後ろめたさを物色する両面の効果があるのではないかとも思う。
 実際上は運営などの公的負担が増加することで非効率な事業となるだろうから、どの程度まで許容できるかという議論や、若干の健康障害がある人への対応はどうあるべきかなど、様々な制度設計上の問題も有り、簡単でないことは解る。
 しかし、この社会状況を考えると何らかの対応が必要だ。難しい問題であるが目を瞑ることは出来ないと考えている。