歴史教科書を考える
2009/07/01記
 6月定例議会で教科書の採択にあたり「新しい歴史教科書」について異論を唱える議員があった。歴史教科書では近代以降の日本がアジアで取ってきた政策の記載について、進出だとか侵略だとか、従軍慰安婦や南京市街戦の問題で、中国や韓国を巻き込み、何回と無く大きな問題になってきたことは知っている。
 新しい歴史教科書をつくる会(会長 藤岡信勝元東大教授)の活動によって「自虐史観」の解消を目指し、芙蓉社から出版された過去の教科書は何回か検定を通過したにも係わらず、ごく一部の学校で採用されただけに留まっていた。その上、会の内紛等のゴタゴタが原因と言われる扶桑社との決別もあり、今回は自由社からの出版に成ったのである。検定を通過した段階で近隣諸国から日本の過去を美化しすぎていると声明が出されたりした。
 
 さて、そんなに大きな問題がある教科書なのか確認したいと思い、6月30日に君津合同庁舎3階に有る南房総教育事務所に行って中学校の歴史教科書の中から自由社と東京書籍を取り出し、明治維新以降の記述を読んできた。
 
 日本には表現の自由があるので、教科書以外でもこの時代を記載した書籍は膨大にある。その中には西洋諸国に追いつめられて行った有色人種が独立を掛けて勇敢に戦ったものが日本だ、という立場に立つ本も有れば、中国大陸で日本兵が行った鬼畜のような行為を書いた本もある。中には日本人に選民思想を重ね合わせた独りよがりな右翼本も有れば、事実誤認が多すぎる左翼本もあり、玉石混合の状況である。
 それらの中から確からしい書物を探し出し、加害の立場や自衛の立場など、様々なものに目を通し、自分の頭の中に近代史感を持つことが出来れば理想的である。例えば本多勝一の「中国の旅」や「南京への道」を読んで、小林よしのりの「戦争論」に目を通すような行為がバランスが良いだろうが、現実には多くの国民がテレビから情報を得る以外には学校の教育で歴史の知識吸収を終えてしまうことを考えると、やはり教科書は重要である。
 
 読んでみると、東京書籍は「繰り返す政府の失策により国民は常に苦労を重ね、時には米騒動のような反抗をした」という印象が残る仕上げになっており、自由社は「日本は良く社会体制を整え、その快進撃によって植民地だったアジアに希望が生まれた」という印象が残るような仕上げに成っている、というのが個人的な感想である。教科書だから当然だが、捏造していると思わせるものは無い。それでも事実の一断面だけを見せることで全体の風景が違って見えることも良くある事だ。
 膨大な事実の中から義務教育で子供に伝えるべき事は何かが問われるのだろう。例えば日清戦争は韓国の国土で戦われ、日露戦争は中国(清国)の国土で戦われ、当事者以外の戦場となった国民の疲弊が著しかった事を知った上で日本の勝利を理解せねば韓国や中国の国民感情を理解する事が出来ないし、満州国の官僚の8割近くが日本人だった事を知ると傀儡であると思うだろう。逆にインドネシアやベトナムの独立闘争はアジアの日本が宗主国を駆逐したことで自信を持った人達が居て、その多くが日本留学をしていたことを知る事も重要だと思うが、そのような知識は学校では求められていないだろう。ただ、国家が常に国民を弾圧していたという歴史観を植え付けるようなことは問題有りそうだ。
 今回の自由社の教科書でも通り一遍の事は書いてあるので、教師が重税に喘ぐ国民や戦場になっている大陸の状況を保管すれば問題ないのではと思うところであり、採用反対運動まで行うのはどうかなと思うところである。
 余分な話であるが、『北朝鮮・驚愕の教科書』(文春新書:宮塚利雄、宮塚寿美子著)を読むと、捏造された事柄の多さにウンザリする。このような教科書が何かの間違いで検定を通過したら地方議会でも採択阻止が当然だと思う。
 
 大日本帝国が解体され、新たな日本が誕生して64年も経過するのであれば謝罪という東京裁判的観点から、冷静に歴史を見る観点に移るべきだろう。そうでなければ中国は漢四郡として朝鮮半島を植民地にしたことや、元寇で日本に攻撃したことを謝るべきであるし、英国のような世界帝国はインド、ミャンマー、香港、中東やアフリカの多くで永遠と謝罪を繰り返さねばならないだろう。日本だって民間人を標的とした空襲や原爆投下をしたアメリカに対して、中国の重慶を空爆した日本に対する中国の批判程度に物を申しても良いことになる。
 第二次大戦で亡くなった多くの人々の関係者に対し責任を東京裁判のA級戦犯に集約した結論が有る現在では現実的な話ではない事は承知しているが、イデオロギーや感情を越えて、本当の歴史の教育が出来る日が早く来てくれることを願うところである。
 
 ※7月5日一部加筆有り