建国記念日に思う
2010/02/11記
 本日は建国記念日である。戦前に使われていた皇紀で表せば今年は2670年となる。建国記念日の根拠は日本書紀で神武天皇が即位した年の元旦を明治政府が計算して、それが太陽暦で2月11日になったというものである。
 中国では21度目の辛酉の年に天命が改まるという思想があり、古事記を編纂した推古天皇九年目の辛酉の年から数えて21回前の辛酉の年である1260年前にそれが当てはまると考え、その年、つまり、西暦紀元前660に天皇家に天命が降りたという歴史観に基づいた記述である。ちなみにその年に神武天皇は、高千穂から瀬戸内海を進み、熊野から八咫烏に導かれて北上して畿内を平定し、橿原宮で天下を収め始めた、という記述である。
 
 第15代応神天皇以前は百歳を越える長寿が続くなど常識で考えられないことから神話だと考えられるし、第26代継体天皇で系譜が変わることや、現在の日本を構成する地域の中で琉球や関東以北は奈良時代以前には天皇家の支配が及んでいなかったので天皇家の神話的歴史に基づく建国記念日は国家を代表するに相応しくないという歴史家も居るようであるが、年に一度、この日は日本について考えましょうという約束事の日だと割り切れば、それほど違和感はない。
 
 個人的には日常的に国家をあまり意識せずに過ごせる日々であるが、在日で外国籍の人々にとっては母国と日本という関係は常に考えられているものなのであろうか。在日3世のように生活も思考も日本と不可分である人たちは日本の建国記念日をどの様な感覚で向かえているだろうか推察しきれずにいる。
 
 最近は、民主党が永住権のある在日外国人を対象に地方参政権を与える法律を提案するという報道が行われ、この問題を巡る議論が多くの場所で聞こえるようになった。
 賛成論は「世界的な傾向でもあり国際化の時代に優秀な人材を日本に誘導するためには必要な政策であり、また納税に対応する権利も与えるべき」という主張であり、反対論は「参政権は国民に与えられた権利で、帰化が可能なのに母国に忠誠を誓っている人には与えるべきでなく、参政権が欲しければ帰化すれば良い」という主張である。
 どちらも一理あり、具体的に地方政治を行う立場からは悩ましい問題である。ただ、日本国への帰化はそれほど容易では無いようで、ポツダム宣言受諾までは日本国民であった朝鮮半島や台湾の国民に対して、手続きの改善と共に考えねばならない問題だと思うし、地方に下駄を預けるような法律は作って貰いたくない。
 
 反対論の中には、最近韓国人が大勢訪れる長崎県対馬市に在日韓国人が集結し市長と市議会の過半数を抑えて「対馬は韓国だ宣言」などをされたらどうするか、などという感情的なものもある。少なくとも私の知る範囲の在日の人々には日本に対する敬意も常識もあり、とてもその様な事をするように思えないのである。
 では極論に従うとして、帰化して日本人に成った場合を考える。例えば沖縄県与那国町のように総人口1624人しか居ない国境の町に中華系日本人が集まり「尖閣列島も与那国島も中国だ宣言」をしてしまった場合も考えねば片手落ちであり、それを防げる法律を作る必要が出てくるのだろうか。
 日本人でもカルト宗教にはまってしまえば遙かに危険な存在であり、例えば熊本県波野村(平成12年国勢調査人口1736人、現在は阿蘇市の一部)では法律違反を承知でオウム真理教の転入を認めなかったような処置を、今後は正当化する法律も必要になるだろうか。
 
 さらに日本人が日本から独立するような動きをした場合についても考えを及ぼすべきであろうか。具体的な話として、沖縄では右の旗のように独立を訴えている人が居るのである。我が木更津ではその様な考えが行われることはあり得ないと考えるが、例えば最小の自治体である東京都青ヶ島村には人口が192人しか居ないので、最近の木更津市が1ヶ月の間に増加する人口に近い200人も連れて移住すれば理論的には村長を選出して独立宣言をするのは容易な話である。
 
 地方参政権は極端に型にはまった日本人観を造ることにつながらないよう、また言論の自由の意味も併せて考えながら、物事を考えないとならない事なのだろうかと思う。多分、今年の大きな争点の一つに成りそうな問題だろうと、建国記念日に考えていた。