民度を考える
2010/08/02記
 先日、某牛丼チェーン店へ食事に行くと、向かいのテーブルに座った年齢40前後の男性が「つゆだくの牛丼と玉子」と注文していた。彼の注文の品は直ぐに届き、玉子を掛けて半分程度食べたところで「つゆだくって頼んだが、いくらなんでもつゆが多すぎるだろう!程度ってものが有るだろう」と怒り始めた。店員は「申し訳有りません、作り直します」と言い、直ぐに換えを持ってきたが、男は「玉子も必要だろう」と主張し2個目の玉子をもらいって、さもこれで我慢してやるという様子で食事を続けていた。私はそれを見て不快な気分になり自分の食事を急いで終えて店を後にした。
 
 何日か前にファミリーレストランの店長が客からの苦情電話を受け、お土産を持って遠くの街まで誤りに行き、延々と苦言を聞かされて、その翌日に自殺したというニュースも聞いていた。
 鉄道駅の職員に対する暴行事件は年々増えているというニュースも聞く。市役所でも窓口で筋の通らない文句を言う市民が時々居ると聞くが、本市では行政暴力対応として警察の方に職員として出向して貰っているので、あまり悪質な場合には毅然とした対応を取っているようだ。
 それにしても、ギスギスした感覚を受けずには居られない。
 
 日本のサービスとしての「おもてなし」の心は世界に冠たるものであり、また世界のホテルで調査した「最も良いお客の国籍」としては日本人が選ばれるなど、基本的には気配りや配慮の精神に富んでいる国民性だと思っているが、そうでない側に立つ人々の比率が高くなっているのではないかと最近思っている。
 
 暴力を振るったり暴言を吐いたりする人の年齢が若い人だけではないので、教育現場における近年の体罰禁止が原因と決められないが、悪いことは悪いのだ、という認識を幼い頃から身体で覚えていないのも一因だろう。
 さらには、「恥の文化」と言われる日本的特性が段々失われている事も考えられる。神に誓うような宗教的契約を一般に行わない我々の規範意識は、行いに誇れるか恥ずかしいのかという判断基準を潜在的に持っていると思うのだが、個性有る人格に成りなさいという方針を間違って理解し、傍若無人になっているのだろう。
 
 大地震や風水害に襲われ多くの物を失う中でも大きく取り乱すこともなく、まして暴徒になることもない我が国は、精神面でも先進国であることは間違えないと思うが、些細なことから綻びが始まっていると思われる。
 ハイチのような混乱を生じる社会では、生命や財産が同じ国民によって常に危機にさらされることになる。そのような状況にならない国民を育て上げるのが政治の仕事であると思う。
 ねじれ国会が始まり、様々な紆余曲折が起きると思うが、国民の劣化を招くような結果にならないことを切に期待する。牛丼の会計を行いながらそんなことを考えていた。