震災対策を思う
2011/01/17記
 本日は阪神大震災より16年目の日である。神戸市長田等の大規模な被災を受けた地域の区画整理事業が全て終わったと新聞が伝えているし、多くの国民にとって経験から歴史に変わろうとしているのかも知れない。
 
 個人的にはアクアラインの建設工事中で、まだ鉄板がむき出しの橋梁の上に居り、車のラジオから京都で仏像が倒れ怪我人が出た程度の報道を聞いた事を今でも思い出す。半日で現場を上がり、青年会議所の新年総会が午後から行われるので、その会場であった今は無き昭和記念館について始めてヘリコプターの映像を見て想像を絶する災害が起きていることを実感した。
 その数日後からアクアラインの現場から多くの技術者が応援で関西に急行し、逆に仕事の負担が多くなった私は現場を抜けることが出来ず、昔住んでいた神戸の応援に行けなかった事が心残りでもあった。
 木更津市も行政支援で多くの職員が現場を見てきたと聞く。当時の若手も現在では中堅となっており、今でも意識の片隅にあのような災害が本市に訪れた場合に何が出来るかという想像力が残っており、それを行政に反映されることを願っている。
 
 所属していた青年会議所も組織的に救援を送り込んだが、その先頭に立つ山本会頭が伊丹の出身で、この災害でご子息を失いながら、それでも私的なことを後回しにして対応し続けたことに深く心が打たれた事も思い出す。
 また、交通網が途絶えた被災地にローソンはコストを度外視してヘリコプターで食材を送り、それを定価で販売する店に被災者が列を作っていた事も深く感動した。ハイチを始め多くの被災地では暴徒化する傾向があるのに、神戸ではそのような事が殆ど発生せず、それどころか関東大震災で朝鮮出身者が多く殺されたことを思いだした日本人の中には在日が多い長田地区で同様の事が起きないように自警活動を自主的に行ったとも聞いた。
 愛する者を亡くし、財産を失う非常時にも冷静である国民である事に誇りを持つと供に、この民度を維持できるような教育の重要さに思いを深くするのである。
 
 震災を契機に政府は迅速な対応を行う組織を作り、自衛隊も知事の要請が無くとも活動が行えるようになった。建築基準法や道路橋示方書等も大幅に改正され、日本の耐震対策が一層の強化をされている。多くの成年が被災地に入り、公共機関を補完する見事な活躍を行った事からボランティア元年と言われる事もある。多くの不幸を無にしないように国を挙げて取り組みが行われていた記憶がある。
 しかし、16年という歳月で、緊急性が忘れられ、公共施設の耐震対策や民間住宅の診断、急傾斜地域からの移転、ブロック塀の改修等が進んでいるようには見られない。議会で市役所の診断を訴えても予算が厳しい事で先送りになっている。
 政府の中央防災会議で30年以内に東南海地震は70%の発生確率と予想されている。ちなみに阪神大震災の発生確率はその当時で0.02〜8%であり不意打ちであった。そのように予想される地震が起きながら倒壊による直接死と指揮の混乱による間接死が大量に生じた場合は、天災だけとは言えず、多くは人災によるものと言われても仕方がない。政治や行政に関わる者は、その重荷を背負っている事を常に念頭に置く重要さを今年も改めている。