復興に向けて考える
2011/04/05記
 統一地方選挙に向けた準備で、通常は駐車場にしている後援会事務所の1階を事務室に変更して1週間が経った。その間、多くの人が訪れているのが、やはり話題の多くは今回の東日本大震災(政府が決めたようなので統一する)の話題が多い。
 
 時間を見つけてボランティアに行きたい人は多いのであるが、被災地が青森県から千葉県まで広がっており、どこに行ったらよいか解らないという声も聞く。関西広域連合では岩手県を大阪府と和歌山県、宮城県を兵庫県と鳥取県と徳島県というように対応する自治体を決め、計画的な支援が出来るようになっている。千葉県を始め関東の諸都市もそれぞれ対応する都市を決め、その復興に助力する方が息の長い支援が可能となろう。そのような調整が早く取られることを願うし、木更津市が支援すると決めた都市には選挙を終えたら駆けつけたいと願っている。
 そうは言っても、投票日の翌日に当選証書授与式、連休明けに本年度の執行部と新議員による初会合、さらにその翌週に臨時議会と公式日程が入ってくると思われるので、改選を達成できたとしても直ぐに出発することは難しい。ただ、その間はGWで休暇になる多くの都市住民が被災地支援に回ると思うので、自分の役割はその後のことだと言い聞かせている。
 
 さて、震災から3週間を越えて、単なる復興ではなく未来型の都市として生まれ変わることを検討し、地域に希望を持たせようと言う動きが見え始めた来た。高齢化が進む降雪地ではコンパクトなまちづくりが今後の方向性となるだろうが、その様な都市計画が技術者として非常に気になる。
 インフラの整備だけ留まらず、エネルギー供給でも太陽光や風力などのソフトエネルギーを積極的に取り入れ、地域自治と行政の新しい役割を再構築するなど、新しい都市を造るモデル地区が出来れば、この震災を塗り替える希望が生まれるかも知れない。
 数年という長期に渡って現地に関与することが出来れば都市計画の一部でも参画することが出来ると思うのだが、本当の意味で自分の役割は今回の震災から学んだことを木更津に反映させることであると思うのである。
 
 4月3日22時05分 読売新聞配信ニュースの中で、今回の津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸に有りながら高さ15mを超える防潮堤で守られた村があると伝えている。
 それは岩手県普代村であり、高さ15.5m、全長155mの太田名部防潮堤は1967年に、高さ15.5m、全長205mの普代水門は1984年に完成したと記事にある。私が普代村を自転車で走ったのは1982年8月7日だったが、水門は国道から遠く、その巨大な構造物を見ていない事が残念である。
 1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で多数の犠牲者を出した経験のある普代村では「堤防が高すぎる」という大きな非難が有ろうとも当時の和村幸得村長(故人)が15m以上を譲らなかったそうである。その結果、「万里の長城」と言われチリ地震津波を跳ね返した宮古市田老地区防潮堤も壊れた中でも当時の村長が信念を曲げなかった結果、集落内の死者は発生しなかったのである。
 
 普代村では山が迫り海に開けた平地の幅が狭かったので出来た堤防であり、他の沿岸の自治体で同規模の物を作った場合は負担に耐えきれないほどの巨大な工事費に成ったと思われる事は理解できるし、都市部では数多くの行政需要がある中で防災にだけ予算を回すわけに行かなかった状況だって想像できる。
 しかし、結果として多くの死者・不明者を出した事に対して担当者は自責の念にとらわれていると思う。職員の責任でなく、政治や地域の決断であるので、個人で責任を負う必要はないが、政治に携わる立場で考えると、住民に巨費を理解して貰う努力は必要だったかと思うこともある。
 
 改選後の議会では、本市の防災について議論が行われるであろう。当選以来の持論である救助活動の障害になる民間住宅の対応や防災拠点の市役所の補強など、学校耐震以外にも必要な事項は山積みであるし、今まで多くを意識しなかった津波対策も考え金田や岩根には人工台地を作ることなどを考えねば成らないのかもしれない。
 被災地の復興を支援すると同時に、自らの地域を強くしていく政策の実現。それが今求められているのだろうと思いながら今年度最初の思うことを記載する。