気仙沼市で支援活動する | ||
2011/05/22記 | ||
臨時議会が終わり少し日程が空いたので、8日の福島県いわき市に続き『日本が大変な時に選挙していた贖罪ツアー』の第2段として2泊3日で宮城県気仙沼市に行って来た。 気仙沼市を選んだのは、議員2年目の2008年7月30日に会派の行政視察で泊まった夜に、一人街中の「でまえレストラン」に繰り出してフカヒレラーメンと日本酒を楽しんでいたら、店主と話が合い多くの酒を振る舞われ、お代を払おうとすると『今日の日本酒はサービスだ。気になるなら次回に来たときに払ってくれ』と言われて『近い内に来ますよ』と答えた約束を果たすことが出来ていなかったからである。 また、今回の被災が最も大きく出た陸前地方の状況も見ておきたいという技術者の興味も気仙沼に行かせる後押しになった。 18日の仕事を終え、午後9時半に木更津を出発し東北道を北上する。深夜でも舗装の段差復旧工事が各所で行われており、インフラ確保に働く工事関係者に感謝を捧げながら途中のPAで仮眠を取る。早朝に一関ICで降り、国道284号線で海に向けて走る。屋根にブルーシートを掛けた家屋も少なく、ガソリンスタンドやコンビニも通常営業をしている。緊急車両の多さを意識しなければ風景は例年と変わらないと思いながら午前8時には気仙沼ボランティアセンターに到着し『車中泊用駐車場』に車を停めた。 |
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▲センター前に車中泊駐車場 |
▼平日なのに数台が車中泊 |
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登録を済ませ、9時に始まる説明の中から床下の汚泥除去作業に申し込み、男6人で現場に向かう。普通の住宅地に有る家屋であるが床が剥がされ真っ黒な泥水が10cm程度溜まっている。気温も高くなり海沿いの溝のような臭いの中で午後3時まで作業を続ける。中心になって働いていた地元の青年は津波で職場を失っており、アルバイトが切れた日は連日作業をしているようだ。前日は床下から腐敗した魚を見つけたと言うし、衛生環境はこれから夏に向かって悪化を続けると思われる。 センターに戻り道具を洗って返却し、解散後は着替えて午後3時半から市内散策に歩き始める。気仙沼駅前の観光案内所で宿を探すが想像通り満室である。車に寝る準備はしてあるので気にせず歩く。駅前の街並みや3年前に視察したキングスタウンは震災など無かったように見える。市役所の先の港に曲がる角を曲がった瞬間に風景は一変し、流された家屋や車・船が散らかり、沈下した道路が冠水しないように採石で嵩上げされた道でトラックが埃を上げていた。大島行きのフェリーは広島県江田島市より借りて運航しされていたが、高さを合わせるため採石で調整されていた。 更に先に進むと打ち上げられたり焼けこげたりする船が見え始める。市場は沈下のためか冠水も見え機能していない。 |
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▲道路に残る大型漁船 |
▼護岸には焼けこげた船 |
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さらに南に進み、被害の大きな南町に入ると瓦礫の撤去もあまり進んでなく、全体に水没した無人の街が広がる光景に圧倒されつつ南気仙沼の駅まで行くが、この繁華街の復旧が何時に成るのか想像が出来ない。3年前に酒をご馳走になった店は跡形も無くなっていった。鉄道上にはまだ瓦礫や車両が残っており、河川の中には流された家屋も残る。梅雨入り前の撤去が間に合うか心配になる。ただ復旧に向けた街の心意気は鉄橋に翻る大漁旗からも見ることが出来て、押しつぶされそうな心が少しだけ和む。 |
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▲JR南気仙沼駅前広場だった空間 |
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▲鉄道の状況 |
▼河川の状況 |
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▼鉄道の橋梁に翻る大漁旗 |
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被災地にも何軒かの居酒屋が開店したとボランティアの途中で聞いていたが、寝床になる車に帰る道沿いに発見したときには迷わずに立ち寄る。雪が降る中を逃げたり、屋根の上で一晩を過ごしたとか、震災の日の状況を先方から話してくれる。その辛さとともに日本人の芯の強さに改めて感動する。そんな中で「でまえレストラン」は震災の少し前に近所の火災の影響で別の場所に店を出したので無事だと聞く。ホッと安心するが詳細な場所と店の名前が解らない。それでも3軒ほど話を聞いて駐車場に戻り車で寝た。 翌日も前日一緒に活動した地元の青年と庭の瓦礫撤去作業を行う。この日に新たに加わった青年は自宅も職場も流され、避難所からボランティアに出ているという。何時まで関東からのボランティアが来てくれるかが心配だと言うが、やらねばならないことの多さにその不安がよく解る。なお、この青年が「でまえレストラン」の新しい店の場所を教えてくれる。 夕方まで働き、近所のコミュニティセンターで風呂に入ったら教えてもらった店である「KEN」に行くが準備中で鍵までかかっていた。また次回に来ればよいし、来なければならないだろうと約束をまた先に送り木更津に向けて帰り始める。気仙沼に入るときは山を越えて一気に気仙沼に来たが、帰路は海岸線の国道45号線を南下することにした。 気仙沼港は前面に大島を持つので波が弱められ、浮力によって移動した家屋や船舶による破壊形状が顕著であったが、本吉や志津川では明らかに波の力によって頑丈なはずの橋梁や建築物まで破壊されており、連続して繰り広げられる暴力的な津波の力に圧倒される。 |
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▲国道45号線RC桁も落橋 |
▼傾いた鉄筋コンクリートビル |
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南三陸町の志津川では病院4階の窓まで破壊されており、その波の高さに恐怖を覚えるとともに、背後に広がる広大な被災地を見ていると、国の支援無くしては自治体では何も始められないことが明らかであり、2ヶ月が過ぎてまだこの程度という政府の対策の遅さに憤りまで覚える。 この日は塩釜で宿を探すが満室であり、多賀城まで移動してエレベーターの停まっているホテルに泊まる。翌朝目覚め、駐車場の周りを見渡すと車や瓦礫が沢山流れ着いている。ここも大きな被害にあって居ることを改めて自覚する。ホテルの食堂で作業着の皆さんと朝食を取ったら三井アウトレットパーク仙台港や仙台空港などを見に行く。 仙台空港は中国の温首相や韓国の李大統領が来る直前だったので膨大な警官が溢れていたが、その隙間を狙って駐車場に車を停め、仙台空港でたった一つ空いている売店で『萩の月』を買ってきた。購入行為も立派な支援だと思うからだ。 |
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▲仙台東道路の海側の風景 |
▼航空学校の飛行機もゴミに |
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雑草すら生えていない仙台東道路海側の被災地の荒野を前にすると金田や岩根が同じ状況に成らないとは思えない。この震災で大きな代償を払った結果として日本に安全を普及せねば成らないと思われるし、せめて私が木更津で避難所の整備を進めないと、命を懸けた教訓が生かせない、と自らに言い聞かせるのだった。 |