議会の慣例を考える
2011/06/20記
 6月定例議会の一般質問が終了した。
 今回の議会で、副議長に就任した斉藤高根議員が一般質問を行おうと考えていたのであるが、副議長が質問をするのは慣例で有り得ないと主張していた方が居たようで、結果として断念した。
 質問のごく一部は同じ会派に属する他の議員で代わりに行ったが、やはり自ら質問できなかったことが心残りのようであった。
 
 議会の慣例と言うが『議会申し合わせ事項』には記載されていない不文律のようで、過去に木更津市で質問した副議長も実際には居るし、富津市等では最近も質問している。もちろん、法的には質問を行うことに全く問題は無い。
 ただ、個人的に副議長が質問を行うことについて、と聞かれれば、公平に議事進行を司る立場から遠慮した方が良いのでは、と回答したい立場である。それでも、明文化していない事なので強く反対する気も無いし、議会が少しづつ変わりつつ有る事を示すのに、今回は行っても良かったのではと思っていた。
 最終的には諸般の事情を考慮して斉藤議員自らが判断したことは彼のブログに記載されている通りであるが、釈然としなかったことであろう。
 
 釈然としないことのもう一方が、正副議長に就任すると会派代表を行えないという事にもある。現実として会派代表者会議など、明文化されていない会議の中で決まることも多くある中では、副議長が会派を代表しているというのは公平な裁量の点から不都合と思われる部分も有るだろう。
 ただ、国会で正副議長が政党を離れて無所属になる事例と一緒に考えるのは無理がある。なぜなら国会では与党が内閣を組織して執行側に回るのに対し、地方議会は議会と別の選挙で選ばれる首長によって執行が行われるので、制度的な差を認識せねばならないだろう。
 ともあれ、結果として会派2期生組で最年少ではあるが調整力を買われて私が代表に就任することになり、議会運営委員会に所属したことも含め、今までと違う視点で議会を見ることが出きるようになったことは、個人的に得ることが多かった。
 
 明文化された申し合わせ事項の第3章2項(3)で「議長、副議長は、特別委員会委員とならない」と記載されているが、常任委員会委員長は特別委員会の委員長にはならない、などという記載はない。しかし、これも不文律で、基本的には議会運営委員会の委員長や広報委員会の委員長も含め、全ての委員長は兼務しない事になっている。
 また、議会選出の監査委員は、監査権限で執行部より多くの資料を要求し、様々な業務を定期的に指摘する立場に居るため、議会質問を行わない、というのも不文律だったように思うが、私の勘違いだったかもしれない。
 勘違いといえば、今回の特別委員会と広報委員会候補者の名簿を見て、広報委員会に2期目以上の議員が2名しかエントリーされて居らず、さらにその1人は監査委員であった事より、もう1人が委員長に就任するしか無いだろうと考え、特別委員会の委員長に推薦しなかったところ、予想外の結果になったことも勘違いだったのかも知れない。
 前期まで私が務めていた広報委員会は、平成23年度の年間予算で491万9千円の広報紙発行費用を使用する実務型委員会なので、そこに監査委員が就任すると、議会費の監査の時には決定者と監査側が同一になるから、避けることが不文律だろう、と私が勝手に思った結果のようである。
 
 法治国家の前提条件として、物事のルールは公平に共有できるよう明文化する事が求められる。しかし、欧米諸国でも慣例法という不文律が現実的には多く残っているし、日本でも『法の適用に関する通則法3条が慣習法の法的地位に関する一般原則を定めている。これによると、公の秩序又は善良の風俗(公序良俗)に反しない慣習については、法令の規定により認められたもの及び法令に規定のない事項につき、成文による法令と同一の効力が認められる』(Wikipediaより引用)ということである。
 私も全て文章化する事が良いとは思わないし、議会申し合わせ事項でわざわざ『議場でのスリッパ使用は認めない』などと記載することは却って品格を欠くものと思うし、文字で書くと下駄やスニーカー等の扱いはどうするかなど微に入り細に渡る定義が必要となってくるだろう。
 
 日本の神道はキリスト教の聖書に相当するような教義を示した書物がない事が一つの特徴である。文字で規定していないといい加減だと捉える方々は、今回の震災で被災した人達の多くが教会や寺院の世話にならず悲しみを乗り越えている事をどの様に考えるだろうか。明確な文字などより、もっと漠然とした精神的なものの方が強かったのでは、と個人的に思っている。
 もちろん東北の方々が無宗教なのではなく、一刻も早く行方不明者が見つかるように、元の暮らしに戻れるように祈り続けていることを知っているが、それは欧米的な『誓い』に基づく契約相手の神では無く、身の回りに見えなくとも存在を感じる神々なのだろうと思っている。
 
 だから慣例で良い悪いを言うような行為もそれほど違和感があるわけではないのだが、その慣例が特定の解釈者によって決められるような事態は如何なものかな、と考えながら議会の慣例を考えていた。