花火大会の中止に思う
2011/06/24記
 6月21日に開催された経済環境常任委員会で今年の港まつりの実施内容について説明があった。今年は場合によると計画停電が実施される可能性があるため、電気の需要が少ない土日に開催することを前提に、本来で有れば曜日に関係なく14日に行う「やっさいもっさい」を13日の土曜日に、同じく15日に行う花火大会を14日の日曜日に実施することとして報告があった。
 今年は、たまたま本来の日程と1日ずらすだけで週末の日程となるのでそれほどの違和感もなく話を受け入れて聞いていた。
 
 予算書を見ると、県内でも多くの花火大会が中止されるため本市にお客が集中する事が予想されるためか、警備費の増額が著しい。中止した花火大会の理由に人が集まりすぎて事故が起きる可能性を回避すると聞いたことがあるが、法曹界も主催者責任を強く追求するとイベントが萎縮することを考えてもらいたいと思っていたことを一度は『活動記録』に表明した。
 
 すると、24日の夕方に届いたFAXは、記載した懸念が現実になり、本市も萎縮して花火大会を中止することを決定するものであった。また、それに伴い1日に予定されていた資金部会の会議を中止にする案内が届いたので、予算規模の大幅な縮小に伴い、本年は市内の事業所等に寄付のお願いに議員が歩かなくて良いという事なのだろう。
 
 当初は900万円を予定していた行政の支出が減少するかは解らないが、市内の事業所等は寄付を行わなくて良くなり、市の職員を含めた多くの団体は交通規制や祭りの広場作成などの労務を行わなくて済む、経済的で気楽な夏を送ることが決まった、というと語弊があるかも知れないが、主催者が気軽に成ったことは間違いないだろう。
 
 この大会に向けて春先から多くの花火を作ってきた業者の方々や、花火を見ながら宴席を設けようとしてきた飲食店などの直接的なダメージは大きいであろう。市民も楽しみにしていたのに寂しい思いをしていると思われる。
 中止の理由として『近隣花火大会の中止が相次ぎ、観客が大幅に増える見込み』になったから万全な事故防止が不可能と結論付けて出した結果と言うことに、今まで出きる限り多くの人々にお越しいただき木更津の良さを味わってもらおうとしていたはずなのに今回の絶好の機会を逃す事に対し私は寂しい思いをしている。
 
 確かに、前例のない程の集客が有った場合は事故の発生確率が高くなることは容易に予見することが出きる。それが予見される中でイベントを実施した場合に発生した事故の責任が主催者にあるという判例が生きている以上、イベントの実施に伴い事故が発生したら、場合によっては被告になり法的責任を取って貰いますよ、と言う意味となり、中止を判断する事を批判することは私には出来ない。
 
 法曹界に居る知人から、裁判で個人が被害を被り公共と争う場合は、支払い能力がある公共側が不利になる判例が出されやすいと聞いたことがある。
 そのような事例の中で、例えば工事中に『段差有り』と看板を出してその日の作業を終えた舗装現場で、夜遅く走ってきたオートバイが5cmの段差でハンドル操作を誤って転倒事故をした者が裁判で勝つような事態も知っている。他に多くの者が注意して事故を起こさずに過ぎたことなどはあまり反映されないようだ。
 もちろん、担当職員には大きな瑕疵が無い限り、個人で裁判費用や慰謝料を負担するのではなく、それは税金で支出されることになる場合が多い。
 そんな事を考えると、地方自治体や公共団体は、福祉や教育などの最低限の事以外は行わない方が良いと考えることが公平な行政運営のためになるだろう。可能な限りよけいなことをしない役所が本当に良い役所だろう。
 
 しかし、そんな味も素っ気もない社会を私たちは目指しているのだろうかと思う。日常と非日常の交差する中に心機一転して前に進める人間性がある以上、時々は非日常を演出することも行政の責務では無いだろうかと思うのである。そんな非日常の代表が祭りではないだろうか。
 
 明石の判例は過去のことにして、自治体が何処まで踏み出して良いかという指針や、公共団体に全責任を押しつけるのではなく個人にも応分の責任が有るという判例を法曹界が示さないと、日本中が萎縮してしまい精神面の復興が遠のくのでは、と今回の花火大会の中止に際し、考えていた。