友人の葬儀で思う
2011/09/13記
 9月定例議会で私が一般質問をしている頃、福島県で東北中央道を建設している昔の同僚からメールが届き、長野県上田市で一緒に高速道路の設計を行っていた2歳年上の友人が癌で亡くなったことを知った。
 
 私のサラリーマン人生は大学を卒業して4年間と短く、会社の同僚というものは少ししか居ない。独立した後も住宅都市整備公団の現場事務所や烏田土地区画整理組合等で多くの方々と組織として一緒に仕事をしてきたが、同じ日に給与を貰ったり会社の在り方について酒を飲みながら遅くまで議論するような、同じ釜の飯という一体感を味わう事は出来ない立場であった。
 そんな短いサラリーマンの日々であったが、上田市に居た頃には国家事業である長野オリンピックに高速道路の開通を間に合わせるため、地域住民や県や市などと連日協議を行い、調査で山野を歩き回り、遅くまで設計図面を修正したり積算をしていた濃厚な時間を過ごしていたことを思いだした。
 
 退職して20年以上が経過しているために、参列者の殆どが見知らぬ顔ばかりであり、喪主である夫人も昔の新婚時代の面影が思い出せないほど変わっていた。もちろん先方も私が誰だか解らないほど変わっていることは自覚していた。
 それでも焼香後の待合室に置いてあった写真集を見たらそこに25歳の私と27歳の故人が楽しそうに過ごしている数枚が納められており、突然の涙を止めることが出来なかった。
 
 短大の土木課を卒業した秋田県生まれの彼は読書家で、技術的なことだけでなく住民説得の話術に長け、一般常識も強く、さらには酒も強くて、翌日が休みの夜には遅くまで飲みながら様々なことを話し、様々なことを勉強させて貰った事を思い出した。
 飲んでいる席で彼から「俺も本社や支社で色々飲んで話をしてきたけど近ちゃんの議論は視点が面白くて好きだな」と言われた記憶がある。上田には色々と夜の論客が多く平日から良く夜の街に繰り出したし、四阿山や妙高山にも一緒に登ったり、温泉やスキーなどには数え切れないほど供に楽しんだ。同僚と言うより擬似的な家族の様に仲の良い日々を送っていたと懐かしくなった。
 1989年4月22日に全員で太郎山登山
 公団を退職して地元に帰る日には数冊の本を餞別に頂いた。今回も生花を置きながら別れを告げた棺の中には数冊の本が収められていたのが彼らしいと思った。
 
 公団を退職後、最初の1年間には数回上田まで遊びに行き、昔の同僚達と飲んだこともあったが、1996年11月14日の上信越道開通記念式典で揃って以来、もう合うこともなくて15年近くが経過してたことにも気が付いた。毎年の年賀状交換は続けていたので例えば木更津の事務所に勤務に成るとか、何かの理由を付けて昔のメンバーで集まってもう一度飲める日が有ったら良いな、と漠然と思っていたが、それも叶わない事になってしまった。享年49歳はあまりに早すぎると悲しくなった。
 
 忌中払いに昼間から酒を飲みながら、亡き友に向けて心の中で語りかけた。
 「俺は君と別の道を、迷いながらも歩んできた。最近は技術者としての人生ではなくなってきたけど満足している。配慮の無い一言で大臣を辞任しなければ成らないような国会とは違うけど、市議会の世界も色々大変だ。毎日の現場状況を考えて休んでられないような日々を送ることは無くなった反面、事業に反対の地権者と協議をするよりも辛い事は沢山有る。公団に残った皆も分社化や民営化で大変だった事も沢山あっただろう。君が元気なうちに杯を交わせたら、それぞれの21年を語ることが出来ただろうけど、昔のような時間を持てなかった事が残念で成らない。俺がそちらに行くまで、もう少し胸の張れる話を積み重ねるから、しばらくの間、待ってて欲しい。」
 
 改めて、後ろ髪を引かれながらも公団職員を辞めてきた日々を思い出し、もっと自負を持って頑張らねば友に顔向け出来ないなと、寂しさの中で思っていた。