放射能騒動を考える
2011/10/05記
 9月議会が終わり、体育の日を含む3連休に公務が無く、その上仕事も比較的暇なので3度目の気仙沼支援活動を企画の中心に据えた東北への旅を計画した。今年になって東北へ行く回数がとても多いと思いながら記録を整理したら、下記のようになった。
 
 @1/15-16で冬の松島見学と泉岳スキー
 A1/30-31で猫魔スキーと会津城
 <3/11:東日本大震災発生>
 <4/24:木更津市議会議員選挙投票日>
 B5/7-8でいわき市ボランティア(1)
 C5/19-21で気仙沼ボランティア(2,3)
 D5/24-25で会津の博士山・小野岳登山
 E6/5-6で岩手県山田町ボランティア(4)
 F7/12-13で青森県下北・津軽サイクリング
 G7/17-20で東松島・気仙沼ボランティア(5,6)
 H8/1-3で行政視察と東松島ボランティア(7)
 I9/23-24でいわき市ボランティア(8)
 
 明日から行く北への旅は、今年になって11回目、震災後だけでも9回目の東北である。ボランティアの回数も9回目になり、確かに頻度が高いと納得した。
 それでも、現地でテントに泊まり込み支援活動を続けている数多くの若者に比べれば一見さんのような行為であるし、木更津を中心に活動しているかずさ災害支援ネットワークの13回に渡る街頭募金や14回の災害支援活動(何れも10月5日現在)に比べれば僅かな行いである。他にも多くの団体や個人が、自らに出来ることを信じてこの震災に立ち向かっている。その様な姿を見ると、まだまだ頑張れると自らを奮い立たせることが出来るし、さらには日本人に生まれてきたことを誇らしくも思うのである。
 しかし、その一方で放射能の恐怖から来る数多くの騒動を耳にするようになって日本人も大丈夫かと思い始めている。
 
 8月には京都の大文字の送り火として、倒された陸前高田の松原の木を薪にして燃やす計画が抗議によっていったん中止になり、その後、止めたことに対する批判の声が上がり、薪を取り寄せて京都市が民間の検査機関に委託て調べたところ、皮の部分から、放射性セシウムが1kg当たり542ベクレル、セシウムも588ベクレル検出され燃やす計画を断念した事があった。
 最初の薪からは放射性物質が検出されず、中止後の検査では薪全体ではなく表面の皮だけで調査するという姿勢によって、却って岩手県陸前高田市が放射能汚染地域であると京都市が認定してしまったような事態が不愉快であったし、配慮の無さが悲しかった。
 9月に入ると福岡の市民グループが福島を支援しようと、福島県産農産物の加工品を販売する企画を立て、やはり「福島のトラックが走るだけで放射能をまき散らす」といった抗議によって中止にしてしまい、結果として福島から来た車に放射能が有って危険な可能性が有ると認定するような行動を執ってしまった。
 さらに愛知県日進市花火大会では、福島県川俣町産の花火に対して「放射能をまき散らす恐れがある」などの抗議で打ち上げを中止している。抗議や苦情の件数は約20件であったと報道があったが、これらのように少数の抗議で簡単に中止する神経が信じられない。
 本来で有ればやるべき事は計画を中止することではなく、トラックが走っても(つまり東北から来た乗用車が通過しても)危険がないことや、花火や薪から放出される放射能は大気の量と比較すると極めて微量で、何も心配ないし、その様な心配は福島や東北に対する人権侵害に繋がっていくと教育し広報することだったろうと思うのだ。
 
 昨日の報道では東京都が宮古市の瓦礫処理を表明したところ、早速苦情が寄せられているという事である。宮古市の線量は東京都より低くても、東北から物を持ち込むとだけで騒ぐ者は、知識不足による被害妄想か、愉快犯ではないかとさえ思えるのである。
 震災直後は「いわき」ナンバーの車と言うだけで避けられたり、福島から転校してきたと言うだけでいじめられたりした現象は、殆どがこの延長線上にある。その様な者は、世界から日本中の全ての物産や人間が差別されることに対して「俺は違う」と烈火のように怒るのだろう。
 さらには放射能と同様に発ガン率のリスクがあるタバコの受動禁煙や食品に対するポストハーベスト・添加物・合成着色剤、さらには化学物質を付着して飛んでくる黄砂等に対して、同様の苦情を言う事が無いとしたら、単に放射能騒動に乗っているだけではないかと思うのだ。
 
 瓦礫処理に関しては全額国費対応という方針が出ている現在、能力に若干の余裕があるKCSの溶融炉を使って協力するべきでは無いかと思うこともあるし、羽田への土砂運搬が終わって余裕の出ているガット船を使用することで東北の支援を行いながら、同時に地元経済の活性化を図れないだろうか、等と考えている。先方の港湾の状況や、様々な障害も有るだろうが、各地域がそれぞれで協力できることを一生懸命やらないと、今年の冬を越えても被災地に春は来ない。今まで毎月のように東北に行く中で、その様に感じ続けているのである。