昔の地図を見て思う
2011/10/25記
 街中が木更津舞尊で盛り上がっている中、木更津図書館に資料を調べに行った。目的のものを見つけることは出来なかったが、郷土資料室のコーナーに置いてある過去の地図に目が停まり、自分が生まれた頃の地図を探して複写を頼んだ。
 正確には私が生まれて4年以上経った昭和43年4月30日に国土地理院から発行された1/50,000であるが、目を通すと興味深いものが多い。
 
 アクアラインや国道16号線バイパスは当然として、清見台の造成や新日鐵及び市役所周辺の埋め立ても行われて居らず、港には数箇所の入り江も見られ、矢那川は屈曲して流れて沿線には水田が広がり、木更津駅東口にも水田が多く見えている。
 今から想像することが難しい物としては、小櫃川に架かる金木橋の下流に久津間と畔戸を結ぶ橋が有ったり、自衛隊の滑走路延長線上に江川や久津間の集落が見えている。
 
 江川や久津間の集落は米軍機の離発着訓練に伴う騒音や事故の回避のため国策として滑走路の延長線部分から移住させられ、現在はそこに広大な国有地が広がっており、その一部は江川運動公園として利用されている。
 現在でも移住前の近所付き合いが残り、移住先が離ればなれになっているにも関わらず『町内』という単位は昔のままで、回覧板を回すのに遠方の家まで運ぶ事も珍しくない。
 新興住宅地のように道路などの区画で囲まれた範囲を町内としていない結果、新規に移住してきた住民が何処の町内に属して良いのかという問題が生じたりもしている。尤も、それは地域の住民の総意で解決する問題であり、行政や議会が関与するべき事ではない。私が言いたいことは、40年以上も前に行われた移転事業が、未だに地域に影を投げかけているという事である。
 また、海側の人口が現在の中野畑沢線より山側に移動したので久津間と畔戸を結ぶ橋の需要が減少し、橋を更新しなかったのかもしれないが、その結果として畔戸は半島のようになって今に至っている(この橋について地図発行の頃には小学校高学年に成っていた斉藤高根議員に聞いたところ、その頃には無かったハズだという事である)。
 
 移転事業によって生まれた国有地では、現在の江川総合運動公園を拡張する形で、野球場2面、サッカー場2面、陸上競技場など様々な運動施設を展開しようという計画が立てられ、自公政権下の浜田防衛大臣時代に話が進んでいたのであるが、政権交代がされた後は遅々として進んでいないように見られる。
 建築物を設けるわけでもないのに土質調査に時間を要しているようだが、その結果として計画がどうなっているのか、なかなか情報が提示されない。個人的には全体に公共残土を余盛して圧密を促してからその土を築山等に転用することで運動公園としては充分な強度を持つことは明らかなので、調査の時間やコストが余分だと思うのだが、それは国の技術者にも考えが有っての事だろうから文句を言わずに結果を待っているのである。
 
 そんな状況の中、6月の千葉県議会で渡辺芳邦県議が現在は東京都の有明と神奈川県の東扇島にしか無い広域防災拠点を、陸上自衛隊のヘリ団と連帯可能なこの場所に誘致するべきでは、という提案があり、8月には商工会議所より市長に「国・県に対して働きかけをするよう」要望が上げられた。
 東日本大震災の記憶も強い間に防災力を高めることは、生き残っている私たちの責務であると常々思っている中で、我が家の近くに広域防災拠点の話が出ていることは前向きに捉えなければと考え、現在12月議会質問に向けて準備中だと、予告と通知のために今回の記事を記載する。