報酬と意欲を考える
2012/02/05記
 今日の朝日新聞の「ザ・コラム」に「Aあなたの年収は5万ドル、ほかの人の年収は2万5千ドル。Bあなたの年収は10万ドル、ほかの人の年収は20万ドル。」という設問に対し、アメリカの某大学で調査したところ6割弱が、日本の某大学では7割強の人がAが良いと答えた、というような記事が載せられていた。Bの方が絶対額で多い給与であるにも係わらず、周辺より低い事が耐えられないという意識には思いあたる点も多い。
 
 例えばかずさ四市の議会でも議員報酬は同じ水準に揃えられているし、隣に市川や江戸川区がある浦安市や奈良市の隣の大和郡山市等は人口規模に比べ多い報酬が出ていると感じた。その様な都市では総額抑制のために議員定数を減らしているようだ。
 議員定数の問題は、各自の報酬を抑えて定員を増やして多くの視点や意見を取り入れるべきか、高い報酬額を支給する代わりに高度に専門的な知識も持ち合わせる人が議員に成ることを望むのかという、難しい判断があるものの、その理由が近隣との報酬額の足並みだけでは如何なものかと思う。
 
 さて、民間企業の中でも比較的高額な給与を支払っていた東京電力の発電所が立地する袖ケ浦市と富津市は、大規模事務所の平均所得が高いと見なされ、国による地域手当の支給割合が高く設定される一方、木更津市と君津市は国家公務員並以上の給与の事業所が無いと考えられているためか、地域手当の支給が認められていない。従って、国の基準に従うと木更津市と君津市はその外側の都市に比べ公務員給与は低くなる。これは冒頭に記載したように日本人の大多数には耐え難い話のようだ。
 ただし、この場合は同じ公務員という職種による比較であり、民間企業や個人事業主、ましてや第一次産業従事者との比較は前提になっていない。その様な前提がないから、近隣市と比べてという理由で地域手当の支給が正当化されている。
 
 日本人の多くが耐えられない周辺の同業者より低い給与と成った場合には労働意欲が落ちると言うことは本当だろうか。生活が成り立たないほど低下して栄養不足になったり、生活を維持するために隠れて副業をして睡眠時間が減少して慢性の寝不足に成ったりする場合には健康面への影響が出て、その結果労働意欲が落ちるのは高い確率で発生すると思う。しかし、そのような所得条件下に無いので有れば、純粋な精神論であろう。
 
 私が大学を卒業した昭和61年はプラザ合意後の円高不況の中でバブルが始まろうとしている頃であった。そのような時代背景で大学卒の初任給も高騰を開始する前であったが、一部の民間企業では人材確保のために先行して給与を上げていた。職人の手間も相対的に低くない頃でもあった。そのため、自分が若いと言うこともあるが、担当する現場の会議では、最も責任のある自分の給与が最も低いという現象が起きていた。
 その時に『君には権限がある。権限が無くて働く方には所得があるようにしなければ公平でない』と言われたことが妙に心に残る言葉であったし、納得もできた。確かに権限があるだけに仕事も面白く、所得が少なくても意欲が落ちなかったように覚えている。
 
 転勤や役職で、面白くない仕事をこなさなければ成らない多くの人達によって世の中は成り立っている事や、同じように面白くない仕事でも近隣市よりハードな仕事をしている職員を前提にして考えると、せめて同等の給与という気持ちも解らないではないが、その時に向き合う市民や業者との関係を考え、市民の勤労者の多くより所得が多いことを考えれば、それでも不公平なのかと考えるのも一つの視点かも知れないし、気持ちの持ち方でも有るだろう。
 そんな事を、今朝の新聞を読んだ後で考えていた。
 
 ※新聞記事の部分を2/6に修正した。