伊能図に感動する
2012/04/29記
 千葉日報で香取市が伊能図を体感する『完全復元伊能大図展』を4月26日から5月2日まで香取市民体育館で行うという記事を読んだ。測量士補の資格を持つと供に、日本中を自転車で走り回って、この国の形を身体に刻んで来た私は、2百年前の日本の姿を見たくて堪らなくなり、27日の昼から佐原まで出かけてしまった。
 
 この企画は佐原市が周辺町村との合併で香取市になってからの市制施行5周年を記念するとともに、東日本大震災からの『復興への新たな一歩』を目指す企画として行われたもので、香取市と千葉日報社が主催している。
 企画内容は伊能忠敬測量隊の実績をパネル表示するとともに、全てが揃った伊能大図を、中図・小図とともに市民体育館の床に敷き詰め、コーティング加工した図の上に立って、その作業を実感してもらうというものである。
 伊能大図とは千葉を代表する偉人である伊能忠敬が測量隊を率い、1800年から17年の歳月を掛けて(伊能忠敬は1818年に死去しているが後継者が作業を続け)完成した『大日本沿海與地全図』の事である。幕府に提出された伊能大図は214枚であるが、原本は明治6年(1873年)の皇居の大火災の際に焼失してしまい、伊能家から献納された控えも大正12年(1923年)の関東大震災ですべて焼失した。それ以降は、伊能忠敬記念館に保管されていた写しなど、約60枚の写し以外は存在が不明であった。
 しかし、2001年にアメリカ議会図書館において207枚が発見され、2002年には国立民族博物館で欠図分のうち2枚、2004年に海上保安庁海洋情報部で最後の欠図部4枚が発見されるなど、近年になってその全容が明らかになったものである。
 
 伊能大図の縮尺は1里を3寸6分で表す縮尺1/36,000の図面であるため、36kmが1mとなる。これを全て並べて体育館で展示すると、東北の北端になる青森県下北半島の尻屋崎から九州の南端になる鹿児島県大隅半島の佐多岬までの約1500kmを並べる事が限界である。そのため、蝦夷地(北海道)は連続せずに置かれていた。なお、現在の沖縄県は、琉球王国として幕府の影響が及ぶ範囲でないため、測量隊が出されてもいない。
 
 企画の2日目になる平日と言うこともあり、中学生が授業の一環として来ており、社会科の先生と思われる人が説明を行っていたし報道関係者と思われる人も取材に来ていた。私は一般人として、測量隊の長距離移動の偉業に感心したり、一部とは言え昭和4年(1929年)まで使用されていたことに驚きながら、地図の世界に入り込んでいった。
 
 会場に現在の日本地図を持ち込んではいなかったが、その殆どをイメージとして持っているため、地図の上を歩きながら様々な変化に気が着く。近代の工業地帯造成に伴う埋め立ての前にも、数多くの干潟や湖沼が失われて、日本の地形が変わってきた事が解るのだ。他には桜島が大噴火前で大隅半島と繋がっていない事や、東北の鳥海山が当時は煙を上げていたことなど、様々な違いに気が着き、ともかく面白い。

岡山の児島湖

下関と北九州

京都の巨椋池

愛知県の田原周辺

鹿児島県桜島

鳥海山の火山活動
 
 蝦夷地と呼ばれていた北海道では、断崖絶壁が続く知床岬や恵山の周辺などの実測が行われておらず、地図でもぼかしてある。知床半島の根本が現実より若干太く思われるが、測量が併合していないための誤差だろうと考えると、正直な地図である。
 
 それ以外にも伏見は巨椋池に面する港町として栄えていたのだなとか、北関東では川越や行田がこの時代には大都市だったのか、とか地区の上を歩き回ることの喜びに震えている頃に中学生も引き上げ、静かに日本地図上の散策を続ける。
 上の写真は大分から瀬戸内海越しに東日本を撮影したもので、地図の空白部分は内陸で測量隊が入らず地図作製がされなかった所である。
 
 全国の地図上の旅に30分以上を使い、すっかり満喫したところで房総半島に戻り木更津の周辺を見る。
 望陀郡の範囲には代宿村・久保田村・藏波村・奈良輪・牛込村・中島村・久津間新田・久津間村・江川村・中里村・吾妻村・木更津・貝渕村・櫻井村と今に繋がる名前が続く。駅名にもなっている袖ケ浦市の『長浦』や金田の『瓜倉』『畔戸』等が見あたらないことや久津間村と江川村の間に小櫃川と思われる河口が記載されている事等が面白い。現在木更津市の一部である小濱村・畑沢村は君津市になる坂田村と同じ周准郡だった事等を改めて認識したり、木更津と同様に奈良輪も村表記でない事は坂戸神社門前の港町にそれなりの集積が有ったのだろうかと想像させたり、地図一つでも結構楽しめる。
 
 伊能忠敬は18歳の時に山武郡から佐原の商家に婿養子として入って才覚を発揮して財をなし、50歳で隠居してから天文学や測量学を勉強し、この壮大な日本国測量の旅を始めたのは56歳の年からである。当時は人生50年と言われる時代であるから、とても高齢になってからの作業である。団塊の世代の大量退職後の第二の人生の見本としても素晴らしい人物であると、井上ひさしが『四千万歩の男』という小説にした。大河ドラマにしたいという気持ちにも大賛成である。
 
 このスケールの大きな企画を行った香取市に感謝を行うとともに、せっかくこれだけの資料を作ったのなら県内各地で開催すればよいのにと思いながら帰ってきた。