延命医療を考える | ||
2012/05/18記 | ||
昨日(2012年5月17日:木曜日)にNHKのクローズアップ現代で放送された「人生の最期 どう迎える?〜岐路に立つ延命医療〜」を見た。最近考えている事と妙に一致していたので、そろそろ書けという時期なのかもしれないと思い、今回の記載をする。 テレビの内容は、日本老年医学会が、患者本人のためにならない場合には治療の差し控えや撤退も選択肢とするガイドラインを発表した事を受け、経口摂取困難な患者に対し腹に穴を開けて胃にチューブで水分と栄養を直接流入させる処置である「胃瘻(いろう)」を行うことで、意思表示出来ないまま何年も生きる患者をどうするかというものであった。 意志表示が出来ない患者が、生きることを本当に望んでいるのか、また胃瘻の中止を望ながら、そのような死に繋がる判断に悩む家族や医療関係者の問題点を取り上げたものである。 番組を見ながら、我が両親は「延命医療などしてくれるな」と言うが、確かに家族としては悩むだろうと思う。そんな中で、最近読んだ『大往生したければ医療とかかわるな』(幻冬舎新書:中村仁一著)には、回復する見込みのない高齢者がチューブで繋がれ、自由を奪われて命を長らえる事は苦痛ではないか、と考え自発的に食事が摂れなくなって老衰を迎えることを肯定的に捉えていて目から鱗が落ちる思いをした事を思い出した。 さて、冒頭に書いた「最近考えている事」とは、親戚と連絡が取れなくなっている高齢者が倒れ、意志表示が出来なくなった場合に、先進医療を使用して生き続けさせることは良いことだろうか、という事である。 病院の中で、誰も見舞いに行かないまま、死を待つ日々を送ることは本当に本人の尊厳になるのだろうか、という視点以外にも、緊急医療の綱渡りのような状況が続いている中で、医療従事者の負荷を軽減するためにも過剰な延命医療だけでも減らすべきだという視点、さらには生活保護や国民健康保険の公的負担分等の支出が有る場合は、治る見込みの無い患者の延命に公金を支出し続けることに対する納税者の理解が得られるかという視点などを総合的に考えると、延命をすることが可能でも『治療の差し控えや撤退』をする事が一般的に成るべきだと思うのである。 先に掲げた中村先生の本では、意識のある内に治療行為の内容に関して本人の意思を示す「事前指示書」の作成を勧めている。例えば経口摂取が困難に成った場合は経管栄養は行わないことや改善の見込みがなければ人工呼吸器は取り外すこと等のように延命医療を排除し、適切な自然死、つまり『大往生』する事の意義を伝えている。 しかし、そのような指示書が無い以上、現在の制度では出来る限り延命しないと、命を奪う行為に荷担しているような精神状況に追い込まれるのが普通だと思う。それが患者の苦痛・医療現場の負荷・増加する扶助費というような現象に繋がっても、個々の現場で命を長らえない判断をすることは難しいだろう。 もちろん、本人がどんな状況になっても可能な限り生きたいと願い、親族もそれを要望する場合は延命医療を否定するつもりはないが、基本的には『寿命』を受け入れるという方向に国民の常識を育成するべきではないかと思うのである。 国政では税と福祉の一体改革として消費税議論が盛んだが、増え続ける医療費や生活保護等の福祉関連予算を抑制しなければ財政が破綻することは明らかな中にあって、障害者に対する支援や介護現場のコスト削減を行う前に、国民の意識レベルを変えることで対応できる削減策と思うのだが、そのような議論が行われているという話は私の耳に届いていない。 医療技術が発達する中で、人生はどうあるべきか、最近はその様なことを考えてる。 以上の文章をアップしたところ、感想のメールを頂いた。大変参考になるご意見のため、一部を転記させていただいた。 『10年ぐらい前から無理な延命治療をやめるべきだと考えていました。主として面倒を見る家族の経済的、心理的負担の軽減のためです。 その時点の現代医学では回復不能で、本人も家族も延命を望まなければ、そして自力で生命を維持できないのであれば、誰も責めを負うことなしに自然死をさせてやるべきです。 家族は直接面倒を見ていない親族や親せきから非情さを非難される。医師は医師の良心と殺人罪を問われる。関係者は何らかの形で世間やマスコミから叩かれる。それでは延命治療をストップする決意はだれにもできません。 それを可能にするには国民の意識を変えればいいのであって、意識を変えるには新しいシステムを作って基本意識を変えていくことだと思います。 私は、60歳になったら、毎年自分の誕生日に遺言を書くように、延命治療の是非を書面にして更新していくのがいい方法だと考えています。これを法か法に準ずる規程によって国民慣習にすることです。そうすれば、やさしい自然死が国民の中に定着すると思います。』 |