林忠崇と博物館に思う | |
2013/11/29記 | |
活動記録に記載したが、11月17日にビューホテルで『上総請西藩主、林忠崇の幕末維新』と題した直木賞作家の中村彰彦氏による講演を聴いた。 請西藩の第3代藩主である林忠崇(1848〜1941)を知らない木更津市民も結構多いようであるが、郷土の歴史の中に、このような人物が居たという事をもっと知ってもいたいし、NHKの大河ドラマは難しいとしても、2時間枠のドラマを作成してもらうよう働きかけるような市民運動が起きても良いと思う。現に香取市や大多喜町では大河ドラマを目指し、それぞれ伊能忠敬と本多忠勝を盛り上げて署名活動を展開している。 林忠崇氏と林家関係者がユニークな点を幾つか列挙すると @林家は献兎賜盃(けんとしはい)の名誉を受けていた(室町時代に徳川家の祖先に林家の祖先が振舞った「兎の吸い物」によって徳川家の繁栄を招いたと考えられ、林家の主は徳川260有余年にわたり、毎年元旦に諸侯に先んじて一番に盃を賜り、兎の吸い物を共にするという栄に浴した)。 A京都守護職の会津藩主・松平容保の元で第2代請西藩主である叔父の林忠交(ただかた)が坂本龍馬が亡くなる寺田屋事件を所管する伏見奉行を務めていた。 B忠崇は文武両道で幕閣の覚えめでたく、将来閣老になる器と評され、遊撃隊の伊庭八郎とともに美男子と言われていたようだ。 C叔父が亡くなり20歳で藩主を継ぐが、木更津に逃げ落ちてきた幕府の遊撃隊と行動を共にするため藩主自らが脱藩する。 C藩士70名とともに遊撃隊に参加し、箱根や奥州で新政府軍と戦うが負け続ける。 D徳川家存続を知り、戦争の大義名分が果たされたとして仙台にて新政府軍に降伏するが罪人扱いとなり25歳まで謹慎する。 E請西藩は戊辰戦争によって改易された唯一の藩となる。 F請西藩の施設が木更津県庁になるが「請西」の名を避けるように貝渕藩と変更される。 G林家は旧諸侯で有りながら改易の事情から華族の礼遇が与えられなかった。しかし旧藩士による林家の家名復興の嘆願が認められ、47歳にして華族の礼遇を受けるようになる。 H林忠崇は昭和16年まで生きながらえ「最後の大名」として94歳の生涯を終えた。 こうやって列記すると、若手のイケ面俳優を主役にしてドラマにする要素は多いように思うのだが、どうだろうか。 さて、そのような林家について現在特別展を開催している「木更津市郷土博物館金のすず」であるが、施設が古くてバリアフリー対応が出来ていないとか駐車場が遠いなど問題はある。しかし、それより私が残念だと思っているのは施設内の展示物が基本的に写真撮影禁止になっている事である。正確には教育委員会の許可を得れば撮影できるのだが、それは有料のサービスであることを条例に明記されているのである。 木更津市郷土博物館金のすずの設置及び管理に関する条例(平成20年3月22日条例第8号)の第7条で『博物館資料の熟覧、模写、模造、拓本、撮影及び原板使用(以下「特別利用」という。)をしようとする者は、あらかじめ教育委員会の許可を受け、別表第2に定める区分に応じ、同表に定める特別利用料を納付しなければならない。』と規定され、出版物への掲載等を目的とする撮影は1点1000円、その他の撮影では1点500円と規定され、一昨日に初日を迎えた12月議会では、消費税の値上げに伴い、それぞれ1020円と510円に値上げする議案が上程されている。 10月18日に見学した『島根県立古代出雲歴史博物館』では、撮影禁止が個別に示され、それ以外は原則自由に写真を撮影できた。県内でも4月11日に見てきた佐倉の『国立歴史民俗博物館』でも撮影は可能だったので、解説の看板をメモしなくて済んだ。 今回の特別展のチラシにも左図の林忠崇候の書かれた絵が印刷されていたので、外部に公開を禁止されている訳では無いようである。 写真がフェイスブック等の通信手段によって広がることでイベントの告知効果が表れ、より多くの人が博物館に足を運ぶという事を考えると、制度の運用を考えるべきではないか、と思っている。 |