成人式の日に思う
2015/01/12記
 本日は成人の日という休日である。昭和23年7月20日制定の『祝日法』では「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としている日である。因みに1999年までは1月15日であったが、平成10年制定の『国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律』で平成11年より第2月曜日に変更と成っている。
 
 木更津市では祝日の今日ではなく、昨日の消防出初式に続く時間帯で、市内の2会場(市民会館及び富来田公民館)において開催された。所管が教育民生常任委員会でるため例年は見学せずに消防行事が終わったら帰っていたが、今年は議長の代理として出席して祝辞を述べる機会が与えられた。
 新成人による委員会方式を採用して以来、荒れた成人式になる事は少ないと聞いていたのであるが、それでもセレモニーに耐えきれず騒ぎ出す輩が居るように思えた。事実、何年か前には来賓の挨拶にヤジを飛ばす不心得者が居て、挨拶の中で『静かにしろ』と怒鳴ったという逸話も聞いていた。
 そこで、挨拶文は出来る限り簡素にするよう心がけたが、危惧するような事態にも成らず、もう少し記憶に残る話をしても良かったかなと考えながら成人式場を出ると右のような張り紙がしてあった。なるほど、昼間からの酔っぱらいが居ないわけだと思いつつ20年前に思いを馳せた。
 
 20年前の内閣総理大臣は社会党の村山富市氏であり、その年の成人式の2日後には阪神淡路大震災が発生している。広範囲な被害が発生しながら出動要請制度の壁に阻まれ自衛隊を有効に活用することが出来ず、救えた可能性がある多くの命が失われる事になった。これより自衛隊の自発的活動が認められた結果、東日本大震災の際には組織的な対応が行われ、どれ程助けられる結果になったのかは言うまでもない事である。
 また、被害の大きさに居ても立ってもいられない多くの市民は、政党や宗教団体や組合のように組織化されもせずに、全国から自発的に駆けつけ支援にあたる事になった。この年はボランティア元年と名付けられ、以降は大規模震災だけに留まらず、昨年の広島の土砂災害のような局地的被害や、日本海でのナホトカ号重油流出事故のような現象にも多くの市民が参集している。私はこの様な現象こそ強靭性であり、素晴らしい国民が居る国家であると誇りたい。東日本大震災の被災地でも多くの若者と出会った事を考えると、このボランティアが普通にいる時間を育ってきた今の新成人には新しい世の中を担っていたく期待を掛けたくなる。
 
 その一方で、20年前の3月20日には、阪神大震災の記憶を上塗りするかのように「地下鉄サリン事件」が発生する事になる。当初は宗教団体が危険な行動に走るはずがないと主張する人も居たが、実態はオウム真理教という新興宗教集団の暴走によるテロ行為で有った事は裁判等を通じて明らかになっている。しかし、今の新成人にとっては物心が付く前の事件であり、20年という歳月が風化させた結果、オウム真理教を継承した団体の信者は増加傾向に有るという。
 フランスでイスラム過激派を風刺する漫画を載せた雑誌に対して行われたテロ行為に対し、表現の自由を守るとして160万人がデモを行ったと本日のニュースで見た。日本の国でも20年前に自分たちの団体だけに通じる理由で多くの命を奪う事件があった事も思い出しながら、宗教の自由を上回る普遍的価値(例えば現在では人喰いの禁止程度)が広く確立され、宗教の名の下に多くの不幸が生じなくなるまでにはこれから何世代を必要とするのだろう。
 日本国内でもヘイストスピーチのような寛容力を失った空気が広がっている。紅白でサザンオールスターズが風刺的な歌詞に替えて歌ったことに異議を唱える人達もいるようだ。天皇陛下を風刺する国民は極右の影に怯える事にも成ろう。現在の日本でもテロこそ無いが自由を謳歌する状況とまで言えない社会である。
 
 今年成人式を祝われた人達が親になり、その子どもが成人を迎える頃に世の中は何処まで進化しているだろうか。そんなことを今年の成人の日に思っていた。