父になりて思う
2016/05/10記
 今月の15日の18:14に埼玉県富士見市にある恵愛病院で妻が娘を出産し、52歳と2ヶ月で父親となった。出産には立ち会わせていただいたが、母親は子供を産むためにこれほど長い間苦しみを続けるのかと感心するし、その一方で人知れず子供を出産して捨ててしまうような親の存在がとても理解できなくなる。
 出産の前夜には「平成28年熊本地震」の前震が発生し、出産後に妻の両親と祝杯を上げて床に着いた後で大規模な本震が発生し、多くの被害が発生していく姿をテレビで知りながらの誕生では有ったが、SNSで知ることとなった友人達から多くのお祝いの言葉をいただいた。今まで友人の子供が産まれたときにはお祝いの言葉を伝えてこなかった自分を振り返って反省しつつ、親にならないと至らない境地も有るのだなぁと感じてきた。
 
 生まれてきた人間の赤子は草食動物の赤子ように直ぐに立って歩くとはもちろん出来ず、それどころか自分の筋肉で首も満足に自立できない。人類はこの様な弱い状態の次世代を育てる生き方を選んで進化してきたことに改めて感動する。また、身体を動かす、外を見るといった基本動作を全て拾得していく過程でありながらも、母乳を飲むとか泣くといった生命維持に必要な最低の事は本能として備わってきている事にも改めて興味深く見ている。
 
  私が幼少期を覚えていないように、この子も一人では動くことすら出来なかった時があったことを忘れて育つのだろう。逆に私が忘れている幼少期は親がこれほど手間をかけてくれていたのだと思うと改めて親孝行したくなり、先日の母の日にはささやかながらプレゼントを贈ることにした。子を持って知る親心とは良く言った物である。ただ違うのは私の幼少期には親が記録を残す余裕がなかった事に対し、今では写真くらいは簡単に取れることだ。
 娘が生まれたからとビデオや写真を取ってるが、昭和に撮影された8mmを現在では見ることが困難なように、この子が大きくなった頃でもデータの規格が一緒で再生可能だろうかとか考える。どんな技術の進化が訪れるか想像もつかない。
 少なくとも、このHPは文字が読めて有る程度理解できるように成るまで続けていきたいものだと思っているが、HPの規格も変わっていくのだろうと考えると時代に置いて行かれないだろうかと不安にもなってくる。
 
 私が生まれたころは高度成長期の真っ最中で、テレビや自家用車といったものが段々と普及してきた頃であり、食生活も衣服も今とは比べものにならないほど貧しかった。新日鐵進出に伴う大合併の頃であり、当時の君津郡は1市9町2村で構成されていた。この子が小学校に入学する頃はまだ「木更津市立」の学校だと思うが、中学を卒業する頃にどの様な行政形態に成っているだろうか。少なくとも自治体としては将来に禍根を残さないような運営を行うよう目を光らせなければと改めて決意を深くする。
 
 国際社会も東西冷戦の最中であり、アジアやアフリカでは内戦が続き貧しく、シンガポールはマレーシアの一部であるなど、現在の世界地図とは大きく異なっていた。ソ連が解体され欧州が一つの連合体となるなど、目まぐるしく変わる世界情勢なので技術の進化と同じように将来が予想できないが、今以上に世界を自由に旅して回れる世の中になり、豊かになったアジアやアフリカ諸国の友人も増えれば良いなと思うが、国際化に伴って日本国の治安や民度が低下していない事を願うばかりである。
 
 異常気象やオゾンホールの拡大など、住み難い世の中に成ってしまうかも知れない。成人式の頃までは大丈夫だと思うが、年老いる頃にも岩根や金田といった海抜の低い土地が海面下に沈んでしまわないことを祈るばかりであるし、そのために出来ることはやらねばとも思う。大地震や津波、富士山噴火は経験することに成るだろうが無事乗り越えてもらいたい。
 
 出産した母親と違い、父親は育児を通じて父性を育んで行くようだ。国会では話題になったが、私達は常勤ではないため「男性議員の産休」は必要ないと思う。しかし、イクメンと言われるように頑張らねばと、父となりて25日目の夜に思いを馳せている。