古墳と城址を訪ねる
2017/08/30記
 9月議会の質問で太田山古墳と真里谷城址を取り上げる事にしているが、その先進事例として調べていると高崎市の八幡塚古墳と箕輪城址が検索された。はるか昔、群馬大学に居た頃にはどちらも荒れていたものがその後に整備を始めたことは知っていたが、質問を行う前に見に行かねばならないと考えていた。
 幸か不幸か、議会質問の順番が最後になり、時間の調整は出来る。地域のラジオ体操も先週で終わったので、気懸かりは娘を保育園へ送る事だが、妻が代わると許しも出た。早めに家を出て、ついでに軽く登山しながら現地見学をしてこようと決めたのは28日の夜であり、29日の未明に出発し見学した。見学順でなく時代順に報告をしたい。
 
 始めに八幡塚古墳を報告する。
 5世紀後半に作られた大型古墳で、近くに有る二子山古墳と薬師塚古墳とともに保渡田古墳群を形成し、当時の毛野の国に有力が豪族が居た事を示す証拠として1985年9月3日に国の史跡に指定された。墳丘の全長は96mでその外側には内堀、外堀、外周溝が設けられ墓城の全長は190mに及ぶ。内堀の中には「中島」と呼ばれる2段の小さな円墳が4箇所有る。発掘調査の所見にもとづいた往時の姿を再現するため、5年の歳月をかけて整備が行われ、2009年度末に復元が完了した。堀は芝生広場となり、周囲には玉石が貼られ埴輪が並んでいる。埴輪は人物・動物の形をした埴輪群像も復元されている。
 周囲に貼られている石は榛名山東南麓の川から採取されたものらしい。ロックフィルダムでも表面を粗い石で覆うように、石を貼ることで雨による洗掘を防ぐことが出来るから理にかなっている。
 それにしても復元の整備水準の高さは想像以上で驚かされた。このレベルの復元を太田山に望んでいるのではないが極端な例として参考にしているのである。多く設置してある看板を見ると県の教育委員会が中心に成っている事は解ったが、もう一点改めて気付いたのは平成の大合併が始める前に、旧群馬町が主体的に行っていたことである。
 時代はバブルが崩壊する前で景気も良く、町の記念碑的事業にしようとしていたのだろうな、と考えると、現在これを引き継いでいる高崎市が適宜芝を刈るなど高い維持水準を保っている事に旧群馬町以外の人から苦情は出ていないかと、余分な事まで考えさせられるスケールであった。
 
 次に箕輪城址の報告をする。
 長野業尚により1512年に築城された(1526年業尚の子の信業によって築かれたという説もある)と伝えられ、東西約500m、南北約1,100mの規模である。1566年に武田信玄により長野氏が敗れて落城、武田氏滅亡後は織田信長の家臣である滝川一益が接収し、本能寺の変の後は北条氏が奪い、小田原征伐後は徳川家康の家臣である井伊直政が12万石の居城として入場し城を改修するが1598年に高崎城へ移されて廃城と成る。以降400年以上の間、城として使われたことはないが保存状態も良く、1987年12月17日に国の史跡に指定された。さらに2年の歳月をかけて2016年に「郭馬出西虎口門」が復元された。これは戦国時代の城門としては6例目で、最大級の規模である。
 真里谷城は1458年に甲斐の武田信長によって築かれ、東西約400m、南北約700mの規模であるので箕輪城より54年古く、若干小さいが遜色はないと思われる。1538年に武田と里見の連合軍が北条氏に敗れた国府台合戦で武田氏の勢いが衰え自然と役割を消していったようなので、城としての役割を終えたのは箕輪城より60年ほど早い。
 箕輪城に向かう道路標識は整備され城の周辺には幟旗が林立し絡め手口には大きな駐車場が有ることにに対し、真里谷城は人知れず山の中に眠っていると感じる。国の史跡に指定されたか否かは大きな差に成っているだろうが、もう一点改めて気付いたのは旧箕輪町が主体的に整備を進めてきたことである。多くの案内看板的な石碑は箕輪町の名において設置されていた。西虎口門の復元は高崎市において成されているが、箕輪地区の人達の故郷を思う熱い気持ちが有ってからのことだと改めて思わされた。
 
 同様に高崎市の一部になった旧倉淵村を登山後に通過し、汗を流して着替えるために相間川温泉に入浴したが、そこは旧倉淵村が地域振興をかけて始めていたクラインガルテンの中に有った。
 前の2箇所の復元や保全に頭が下がるが、元々が小さな自治体だったから一点突破的な事業が行えたのかも知れないと木更津でこの記事を整理しながら考えている。中郷村や富来田町が木更津市に合併していなければ、貧乏ながらももっと個性的な事業を行っていたのかもしれない。その代わりに大きなリスクも背負っていただろう。地域の歴史に光を当てる先進的な事業を見てきながら、別の視点で考え込んで、今回の記事を終えたい。