野田市の虐待に思う
2019/02/18記
 この週末に妻子を連れて湯沢中里のスキー場や十日町市の雪まつりを楽しんできた。これから2ヶ月間は選挙モードが高まり家族サービスも疎かになると考え、旅をしてきたのである。
 多くの父親が感じている事であろうが、幼子はその存在自体が可愛らしく、たとえ親の言うことを聞かずに手間が掛かっても、それを帳消しにして余りある存在だと私も感じている。まさに「親になって解る親心」である。因みに右の写真は十日町雪まつりで新潟県知事賞を取った雪像である。
 
 しかしながら、私の想像が及ばない所で自分の子供を虐待し、死に至らせてしまう親も居る。最近多くの報道が成されている野田市の栗原心愛ちゃんの事件は多くの事実が明らかに成るに連れ、野田市の教育委員会や児童相談所に批判が集中している。虐待の事実を把握し、児童から救いのメッセージが送られながら最後は父親から暴力を受け続けていた母親に助けて貰うこともなく絶望の中で亡くなって行った子供のことを思うと多くの人が心を痛めていると思う。私もそうである。
 
 この事件については既に多くの論客がコメントしており、野田市だけでなく元の住所である沖縄県糸満市との連絡や親戚の対応など幅広く責任を求めていく論調にもなっているが、この事件だけに限定せず、今現在でも多くの子供が保護者からの虐待に苦しんでおり、死に至らないとしても心に大きな傷を負い、社会を信頼することが出来ずに居る状況を想像することも重要である。
 警察官や消防士など危険を伴う職業に就く人達は覚悟の上で有ると思われるが、教育委員会や児童相談所という箇所に居る人は目の前に命の危機があり、それを守るため組織を動かして対応しなければならないという意識がどの程度有るのかという点も気になる。事務仕事が優秀な人より、絶対命を守るという強い使命感を持った人を採用するような人事が必要になるだろうし、たとえ何度も空振りや勇み足になって批判が寄せられることになっても、その意識を萎縮させないような組織の体制も重要であろう。
 野田市の関係者も自分の育った環境を考えると、まさか親に殺害されるような事態に至るとは想像できなかったのだろう。私もその立場にいたら命に直結しているという認識が出来たかと自問してみると心許ない。警察や多くの機関を巻き込まなかった事は残念であるが、警察が事態を把握しながら同じ結果になると、今度は警察に批判が集中する事態になっていただろう。
 
 子供を我が儘に育てないためにはしつけが必要であり、それが暴力を伴うことは論外としても、自分の我が儘が通じない子供は簡単なことでも泣き叫び、周辺には虐待が行われているのではと勘違いされることもあるだろう。その様な場合に強い使命感を持った職員が介入してトラブルに成ることだって厭わない環境を許容する事が全ての子供を救うためには必要な事だと思うが、現実に夜寝なさいという言葉や服装の好き嫌いに対しても泣き叫ぶ娘を抱えている我が身には誤解を生じるリスクが難しい問題であるし、細かな問題に介入し続けられるほど行政側の人員は豊富ではない。
 
 今回の野田市の事件では救い出す多くのチャンスが有りながら救えなかった問題の根が深いが、今後は虐待の疑いが少ないと判断されるような事案でも残念な結果が生じることも有り得るであろう。全ての事案に対応することは不可能だという事は承知の上で、行政組織をどの様に作り、連携を強化していくかが問われる。
 さらには問題のある親への対応、子供の保護というレベルでなく、将来親になる中学生の頃から子育てを考えさせ虐待を撲滅していくような教育造りや地域社会の構築など、考えて行くべき事は多い。今回の事件の背景にある暗がりの広さに色々考えさせられながら、もう悲惨なニュースは聞きたくないと考えていた。