プロフィールを文章にする | ||
2019/04/05記 | ||
4月14日から開始される木更津市議会議員選挙において、18日の14時から個人演説会を行う予定を立てた。そこで話すべき事を考えている中で、私の人となりをもっと良く知ってもらうためにプロフィールを話すことから始めるべきだという当たり前の事に気が付いた。文章を打ち込んでいると、当日の演説会の会場に来られない人のためにもHPにアップするべきだという気持ちに成ったのでここに記載する。 なお、プロフィール以降の原稿についても順次アップして行くつもりなので、しばしお待ちいただきたい。さらに原稿を読んで常時加筆するので、本番の行われる18日まで下記の文章は変化するし、当日は原稿にあまり頼らずに話すつもりなので、違う話に成る事もご理解いただきたい。 |
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「誇れる木更津づくり」をテーマに今から12年前、平成19年の統一地方選挙において市議会に立候補し、当選させて以来、現在まで皆様には大変お世話になりました。今回も4期目に向けて挑戦をしますので、皆様に投票をお願いすることはもちろんですが、皆様のご友人にも投票の依頼をして欲しいと、重ねてお願いをさせていただきます。しかし、投票の依頼をするのに、私という人物が良く解らないと頼みづらいのかなと思いますので、演説会の最初に、私のプロフィールを紹介させていただこうと思います。 1964年、昭和で云えば39年の2月に建設業を営んでいた近藤富男の長男として江川に生まれました。最初の東京オリンピックは8ヶ月の乳児であったので記憶にありませんが、その6年後に開催された大阪万博には行っていませんが、何となく覚えております。来年は2回目の東京オリンピック、それから5年後の2025年、令和7年には2回目の大阪万博が開催されると云うことになり、時代が一巡りしたように感じます。 岩根小学校・岩根中学校と地元の学校で学び続けました。なお、岩根西中学校は昭和57年の開校ですので、私が高校を卒業して大学に進み、地元を離れた年になります。今でもそうですが小学生の頃は単純な記憶が苦手で、九九を全て覚えることが出来ませんでした。その代わり工夫を凝らし、例えば覚えられない七八とかは二七14の倍の28の倍で56というように計算する事でカバーしました。だから覚えられない代わりに計算力が強くなったと思います。今でも物覚えには自信が無く、女房に頼まれたことの半分は忘れます。仕方ないので議会では常にノートを取り、それをHPに整理する中で頭の整理をしています。 また、中学校までは部活動や生徒会活動等は全くしてきませんでした。早生まれと云うことで同世代の中でも背が低く、当時は痩せていたのでスポーツは弱く、直ぐに帰宅する生徒でした。ただ、体を動かすのは好きで、何処の家庭も同じでしょうけれども、仕事で忙しかった両親が遊びに連れていってくれなかった事もあり、友人同士で集まり自転車で鹿野山や養老渓谷などに足を伸ばしていました。 岩根中学校の頃の成績は学年約3百人中の60位前後で、成績でも特に目立っていたこともなく、そんな私が政治への道を進むなどとは、当時は考えても居ませんでした。 高校は木更津工業高等専門学校、いわゆる高専と君津高等学校の2校を受検して、双方に受かりましたが、姉が前に通っていて馴染みがあったのと、共学と云うことに曳かれて君津高校に入りました。最初は巌根駅から電車で君津駅まで通っていたのですが、巌根駅から木更津駅までの混雑が酷かったことと、君津駅から君津高校までの歩きが長いこと、さらに君津駅での電車が少ないことから、1年の夏以降は片道11kmを自転車で通うように成りました。選挙戦を自転車でという基礎は、この頃に養われていたのかも知れません。 高校のクラスでは文化祭の発表として劇を行うことになり、大道具の責任者を務め、また友人と一緒に新しい同好会である「SF研究会」というサークルを立ち上げたりしました。なお、当時は小松左京の日本沈没とかノストラダムスの大予言といったSFやオカルト的なものが流行していた時代でした。また、この頃に成田空港の開港を前に激しさを増していた若者の闘争を耳にして、社会の在り方というものを考え始めた事が政治へ進む遠因に成ったと思います。 中学校から始まった自転車旅行、いわゆるサイクリングの趣味は高校になって領域を拡大し、高校1年生では箱根や日光へ、2年生では寝袋を持って13日間かけて北陸を走り、高校3年生の年には四国まで足を伸ばしました。高校2年生の頃までは高校を卒業して働こうと思っていましたが、旅の途中で大学に進学したいと思い高校3年生の夏の旅が終わってから受験勉強を始めました。 昭和56年頃の我が家では父が建設業を営んでいましたが、オイルショックの不景気な時期でもあり、授業料が当時は年額で21万6千円と安かった国立大学に進む事を考えました。都会の大学は似合わないことと、当時愛読書だった新田次郎の登山をテーマにした小説の影響で、長野県の信州大学か群馬大学に進学しようと考え、冬の除雪が大変そうだという判断から空っ風が吹き荒れる群馬大学に進みました。学科は家業の影響で建設工学科に進みましたが、建築より更にスケールの大きな土木に興味が移っていきました。 大学では一人暮らしを始め自炊を行い、アルバイト等を行う一方で、留年していた学科の先輩に誘われて大学生協の学生理事を務める中で、左翼系の人とも話をするようになりました。と言っても左翼の活動に協力した訳ではなく、群馬大学が全学連に加盟するのを学生大会で反対して否決するなど、中道を進んできたと思います。現在でも自民党に籍を置いていますが、選挙では無所属として立候補しますし、野党の言うことに耳を傾ける気持ちは、この頃に醸成されていたと考えます。 一人暮らしで時間が全く自由になったことで、色々なことを行いました。大学1年生では自転車で北海道まで27日かけて往復し、東北や北陸などにも頻繁に足を運び、4年生の時には38日間かけて九州まで足を伸ばしました。旅の途中で多くの人とふれあい、日本中を見てきたことで視野が広くなったと思っています。また、この頃は大規模開発に反対して住民による地域づくりが始まった頃で、特に有名なのが大分県の湯布院ですが、自転車の旅をする中で、多くの地域が住民の力で故郷を何とかしようとしている姿を見てきて少なからぬ影響を受けました。 大学4年で研究室に入り、担当教授からは大学院への進学を示唆されましたが、国家というものの片鱗を見たいと考え、国家公務員試験を受検し日本道路公団に就職したのが22歳の事です。 最初の就職先は兵庫県の西宮市にある中国自動車道の管理事務所で、関西の空気を2年間吸ってきました。今でも関西弁、と言っても播磨訛ですが、話すことは出来ますし、値切ることを恥ずかしいと思えないような価値観の転換が少しはあったと思います。また、神戸に居た昭和62年の4月、国鉄が分割民営化されてJRに成った年ですが、私の父である富男が市議会議員選挙に立候補しました。選挙戦の最中に祖父が亡くなりましたので葬儀で帰宅したところ、随分賑やかな選挙であるが、雑な選挙を行っていると感じました。結果として次点となり、苦杯を呑むことと成ったのです。 神戸の次の勤務先は長野県上田市で、長野オリンピックに間に合わせるよう上信越自動車道の設計や地元との用地交渉などの仕事を行いました。因みに昭和から平成に変わる日は上田市で迎えています。大喪の礼では全国的に自粛ムードに覆われる中、スキー場に続く道路が大渋滞していた記憶が残っています。 長野県での大規模な建設事業を通じ、地元の自治体が主体的なまちづくりを進める事ができていない状況を内側から見ることになりました。同じ頃に東京湾横断道路の計画が進む木更津市の将来が心配となり、退職を申し出て、平成2年に日本道路公団勤務を終了し、故郷に帰ってきました。 道路公団の退職辞令は4月1日に受けたのですが、同じ日から江川消防団の一員に成っていました。 これは帰宅すると知った同級生の団員が3月末に自宅に勧誘に来て、まだ当時は上田市に住んでいたのですが、自宅にいた父が快く承諾したという事のようです。もちろん、8年間も木更津を空けていたので、義理を果たさねばという気持ちも有りましたから異論はありませんでしたが、直ぐに始まった消防操法に向けた日々は、何でこんな事をしているのかという疑問と戦う日々でした。それでも翌年度以降からは自分が教える立場に成っていくというのが消防団という組織です。消防では岩根地区の7つの部、中里・江川・久津間・万石・住吉・西山・高柳を統括する4分団長まで務めさせていただきました。その中の一つである4分団5部、住吉町が団員不足により3月一杯で解散となりましたので、今月からは6つの部と成っています。消防団は途中の休憩を含め足かけ7年間活動させていただきました。 故郷に帰ってきた時に、既に木更津市議会へ進む気持ちを持っていましたが、父が挑戦をする覚悟を決めていたことと、市内には同級生程度の友人しか居ないこともあり、社会勉強も兼ねて木更津青年会議所の門を叩き、その年の秋から正式な会員にさせていただき、以来14年間に渡り活動する中で理事長以外の殆どの役職を努めさせていただきました。理事長の話も何度か来たのですが、仕事の多忙期と理事長の最も忙しい時期が重なるため、受けることが出来なかった事が今になると残念です。 青年会議所でも入った翌年に1週間の休みを取って地域の子どもたちを和歌山に連れて行くなど、何でこんな事をしているのかという疑問と戦う日々でした。それで翌年度以降から政策提案系の組織に行くことが多くなり、君津郡市をかずさ地域と呼ぶ提案、アクアラインの開通後のバスアクセスの提言、四市合併推進運動等を主体的に行ってきました。これは現在の議員活動につながる知識の源に成っています。 青年会議所では物事を決めるのに理事会という議決機関があり、夜7時から始まった会議が午前2時を回ることもよくありました。大変でしたが、そこで得た会議運営の経験が今の議会で役に立っていますし、そこで出会った友人が渡辺市長や高橋県議を始めとした政界の方々、商工会議所や法人会を始めたとした経済界の方々など、今の私にとって多くの宝となっています。 木更津に帰ってきてから色々なものの建設監理や設計をしてきました。建設監理と言ってもピンと来ないかも知れませんが、解りやすく言えばフリーの現場監督です。受注者の制服を着て、そこの社員のふりをして、施行業者を指揮する現場監督の仕事です。藤倉電線の社宅と云った建築工事の監督もしましたし出光興産の石油タンクの地盤解析といった設計の仕事もしてきました。アクアラインの舗装工事を行っていたとき、未明の橋の上で阪神大震災の発生をラジオで聴きました。千原台の造成工事で住宅都市整備公団の職員の補助業務をしていた時に長野オリンピックのジャンプ競技の金メダルを仕事の手を休めて見ていました。 議員に成る前に手がけた大きな仕事は羽鳥野の造成工事です。区画整理事業として住宅地を建設するのは当然ですが、造成と同時に工事を進めていた館山道が単に通過するだけでは勿体ないと考え、昔の道路公団のつてを活かし、木更津市役所に働きかけ、高速バス停を設置したことで、現在の木更津市の人口増加につながっている事と自負しております。 仕事の傍ら、4年に一度の市議会議員選挙では父の裏方となって事務処理を行って来ましたので、今回で私の選挙は4回目ですが、選挙の経験は8回目に成りました。自分の代になり、2回目からは選挙カーを廃止するなどの変化を設けましたが、3回目からマンネリ化して省エネ化が進んできました。今回は一念発起して個人演説会という、今までやったことのない事にチャレンジしました。その結果、何を話すか考える中で、自らを振り返ることに成り、とても貴重な経験に成ったものと思います。ここにお集まりの皆様に改めて感謝申し上げます。 |