神道と日本を思う
2023/07/14記
 戦前の国家神道による天皇家の神格化が進み、欧米社会には理解し難く危険なものに見えたためか、戦後の日本国憲法では政教分離の名の下に宗教に対する公的支援は違法とされた。
 そのため建築工事の前に行われることが一般的であると思われる神主が取り仕切る「地鎮祭」に対しても、今から52年前の昭和46年には三重県の津市で玉串料を公費で払うことは違憲ではないかという裁判が行われるに至った。最高裁では国家が宗教との関わりを持つことを全く許さないとするものではなく相当とされる限度の中で許容されるとされた。
 
 アメリカ大統領は就任に際し聖書に手を起き誓いを述べるし、中東諸国ではイスラムの掟を国家として法制化し規制するかが問われており、アフガニスタンなどでは女性の就学機会が失われるなど人権の侵害にも繋がっているが、それぞれの民族が長い歴史の中で基本的な事として体系付けてきたことなので酷い人権侵害になっている場合を除けば外部から、とやかく言うべき事ではないように思う。
 日本で特徴的な「神道」については、教義も戒律もない中で千年を軽く越える歴史があり、地域の文化であるお祭りだけでなく、建築様式や里山の保全を通じて景観形成にも大きく寄与し、地域が他の地域とは違うという意味でのアイデンティティの形成には強く働きかけており、何より歴史を遡る際に基本的な道標として理解しておくことが必修であると考えるが、信仰している宗派の教義と抵触し関係者から苦情が来ることが想定されるためか、小中学校における宗教教育が行われるという話は未だに聞かれていない。
 
 ともあれ宗教分離の原則が公共の意識を制限しているためかは解らないが「鳥居崎公園」という名前が示すように元々鳥居が有ったことが前提である公園内であるが、新たに立てられている鳥居は宗教施設ではなく、鳥居の形をしたモニュメントという位置付けになり、通常の宗教施設にある「額」は飾られないようだ。
 設置位置は誰がどう考えても八剱八幡神社の参道に位置するのではあるが、モニュメントは神社の所有物件ではなく地域で所管するという形式にするという。異論が出ないように智恵を絞った結果だと評価するが、そこまで宗教色を消すべきかという違和感は拭えずに居る。
 
 神道を地域や国家が庇護し、それ以外の信仰に重圧を掛けるようなことは行っては成らないと思うが、長い歴史の中で地域に根付いているお祭りは多くが神社を拠り所とする。宗教とは関係ないと言えないような夏祭りが全国各地で繰り広げられ、多くの自治体は警備費などの補助金を出していると思う。
 木更津港まつりも宗教色は薄く、参加してくる人々の国籍や宗教を問うことは無いし、そもそも存在しない教義を唱える事もないが、それでも開始は八剱の宮司を招き修祓式から始まる。
 
 個人的な考えについて批判を恐れずに言えば、歴史や民族というカテゴリーが宗教を元にして成立している以上、文化や歴史の継続を行うためには今まで認識されている宗教が優越的な立場に立つことや、多くの市民とともに行う行事には公金が出されることに異論を挟むつもりはない。
 そもそも教義もない神道では、イスラム教のような厳しい戒律も存在せず、清らかであること(実は感染症対策には有効)を重視しており、各自が仏教やキリスト教などの明確な宗教に所属していても排除することはない。我が家も仏教で真言宗ではあるが、神社への参拝は普通に行っており、明日は八剱の例大祭でも見たいと思うように共存を許している。神社の固定資産税が免除されるように宗教施設であることは明らかなのであるが、特定の氏神を持たずに初詣だけに利用する存在でも神道の一人とされる世の中で、どの程度まで宗教と同時有るべきか考えながら鳥居崎公園の現場を見つめていた。