還暦を過ぎて思う
2024/02/10記
 1964年2月17日の木更津市は黒い雲が垂れ込め夜中から雪になったようだ。そんな日の夕方に近藤富男・かおるの子どもとして生を受けた私は昨日還暦を迎えることになった。ついに60代へ突入である。まだまだ若いつもりで居たが既に赤いちゃんちゃんこを着る年になってしまったのだ。
 私の生まれた1964年に60歳だった人は1904年の日露戦争の年に生まれたことになる。その後に二つの世界大戦を経験し、敗戦からの復興を果たし高度成長が続く中で東京オリンピックを迎えて新幹線や高速道路を開通させ日本を先進国に仲間入りさせた日々を過ごしてきたことになる。そう考えると60年は歴史的な長さである。
 
 私も昭和を約25年、平成を30年、令和を5年と3つの時代を過ごしてきた。幼稚園の2年間を含めると学んでいたのが18年、サラリーマンと自営業を含め建設業で食べていたのが21年、そして市議会議員になってから17年が経過している。自転車で走り続けた日々もあり消防団活動や青年会議所活動で汗や涙を流した日々もあった。還暦を機に振り返ると下表のような人生である。
西暦 年齢 時代 所属 趣味等 車両 特記事項
1964 0 昭和 東京オリンピック
1965 1
1966 2
1967 3
1968 4

1969 5
1970 6

1971 7
1972 8
1973 9 オイルショック
1974 10
1975 11
1976 12

1977 13






1978 14 オイルショック
1979 15

1980 16
1981 17
1982 18


1983 19 GTO
1984 20 SSS
1985 21
1986 22




バブル景気
1987 23
1988 24




1989 25 平成



1990 26














1991 27 バブル崩壊
1992 28
1993 29



1994 30
1995 31 阪神大震災
1996 32
1997 33
1998 34
1999 35
2000 36





2001 37 同時多発テロ
2002 38
2003 39
2004 40
2005 41
2006 42
2007 43



2008 44
2009 45
2010 46
2011 47 東日本大震災
2012 48









2013 49
2014 50
2015 51
2016 52
2017 53
2018 54
2019 55 令和
2020 56 パンデミック
2021 57 東京オリンピック
2022 58
2023 59
2024 60
   
 趣味の自転車はかずさ四市と市原市以外に足を広げたときから鹿児島県の十島村(吐喝喇列島)を走るまでの期間、登山は長野県上田市に転勤になり本格的に山歩きを始めたときから現在まで、消防団は途中に2年のブランクを挟むが入団から退団まで、青年会議所は現役時代だけで整理している。自家用車も学生時代の中古車を含めると現在の車で7台目となった。
 
 小学校の頃にはラジカセが流行り、度重なるオイルショックの不景気ではあったが日本経済の拡大で未来に明るい希望を持っていたように記憶している。君津製鉄所の進出を始めとした千葉県の工業化で半農半漁の地域にも新たな住民が増え、木更津青年会議所の先輩方は「みんながお隣どおし」という心で地域の融和を図るべく「やっさいもっさい」を開始した。
 高校になると長い旅に出かけるようになるが、携帯やポケベルもなく、長距離電話が異常に高い頃で安否を知らせるためには数日おきに自宅に短い電話を掛けることしかできなかった。都内で友人と待ち合わせても時間に遅れる場合には駅の黒板に伝言を書くような時代であったことが懐かしい。
 
 大学になって千葉県を離れ前橋市で一人暮らしを始め、その後は桐生市・船橋市・吹田市・神戸市・上田市と18歳から26歳までの8年に渡って木更津から離れていた。その頃に地元に残っていた者達は青春の真ん中で色々と交流を深くしたようだが、私も多感な時期に違う環境で生活を送れたことは今に繋がる財産だと思う。また大学時代に始めてパソコン(NEC-PC8000)に触り、それで遊ぶためのゲームは自分で入力してカセットに記憶しバグを捕るという作業を行っていた。パソコンの進化に伴いグラフィック処理が出来るようになったことに感心した。個人的に最初に買ったパソコンは最初のノートパソコンといわれるPC-9821Nであるが当時でも30万円近い価格でありながら液晶は白黒で、フロッピィディスク一枚でロータスや一太郎が起動したことが懐かしい。その後の進化には目を見張るばかりで全く追いつけていない。
 サラリーマンになってバブルが始まるが地方都市に居たので実感が無く、上田にいる頃に昭和が終わり新しい時代が始まる中でサラリーマンを辞して木更津に帰り、アクアラインの建設やちはら台の造成、羽鳥野の区画整理など様々な仕事をやってきた。バブルの人手不足の歳には富津で建築工事の監督も行い土木との差を勉強することもできた。そんな仕事の傍らで消防団や青年会議所活動を行ってきたのである。住宅都市整備公団に会計検査が入るときに消防の操法大会も重なり待機令が出ているにも係わらず下請けの自分は残業せずに帰宅した。公団の職員から「公私を明確に」と言われたので「消防団の方が公共性が高いので帰宅します」と若気の至りで言っていたのは懐かしい。もちろん会計検査対応は時間内で充分にしてきたことも付け加えたい。
 なお、私が神戸にいる頃に「国鉄」は分割民営化され、私が務めた「日本道路公団」や仕事を頂いた「住宅都市整備公団」も今は既に無くなり、所管していた官庁の「建設省」も運輸省と合併して国土交通省に変わっている。今でもうっかり建設省と言ってしまうが戦前の方が内務省というのと同じぐらい時代錯誤なのだろうか。
 
 2002年に青年会議所で四市合併運動を行った頃にHPの担当を行ったが、自分のHPを立ち上げたのは選挙に立候補する気持ちを固めた2006年であり、それから既に18年が経過している。トップページのデザインは当選後に変えたが、それ以降16年間は変えていない状況で、ひたすら頁数だけが増えている。時代に合わせて携帯用のスタイルを造るとか、インスタグラムやユーチューブなどにも進出するとか考えるべきであったかも知れないが、それは次の世代に任せることにした。何より16年も大きな変化のないHPを読んで頂いている方には、代わり映えのしないものに付き合っていただき感謝する次第である。時代の変化を振り返ると同時に還暦を過ぎて感謝も伝えたく今回の記載をした次第である。