父近藤富男を偲ぶ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2024/03/16記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
何時かは訪れることだと覚悟はしていたが世の定めに逆らえず、昭和10年1月8日生まれの我が父である近藤富男は石井病院で肺炎による呼吸機能の低下を酸素吸入で治療していたが東日本大震災から13年目となる令和6年3月11日の23時30分に両親や兄弟の待つ世界に旅立った。 私が市議会議員としてのスタートを切るのは父である富男が市議会議員を引退した直後の統一地方選挙であった。いわゆる「世襲議員」として議員生活が始まったのであるが、父を通じて先輩議員にも知人が多かったことや市役所職員や各界でも多くの人が元議長の富男の息子というだけで評価していただき多くのアドバンテージをいただけたことは間違えない。その様な無形の財産を残していただいたことに対し、それ以前に子どもとして産み育ててくれた事に関して亡き父には心から感謝するしかない。 葬儀の喪主となり、改めて知っていたと思われる父の人生を整理して振り返ると、昭和初期に農村で産まれた男の生涯を改めて実感し、自らに置き換えると耐えきれないような日々を越えてきたことを実感させられる。年表として整理して主な出来事のあった年をピックアップしたものが下表である。 |
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満州国建国の3年後、日中戦争勃発の2年前に農家の息子として産まれた父は戦時下の大日本帝国で育ち、木更津基地周辺に居住していることが危険になった1945年には岩根に近い牛袋地区(通称:図那)に10歳で疎開している。戦争が終わって疎開から帰り戦後の義務教育課程で岩根中学校に進んだ頃には校庭の石を取り続けたと言っていた。 中学校を卒業する頃には兄弟も増え、小さな家で両親と爺婆、姉と4人の弟が同居する10人家族に成っていた。現金収入を得るため中学卒業後に建設業に進出して弟たちの学費を稼いだと聞いている。数年経って小糸から海苔生産のバイトに来ていた私の母を見初め、近所から嫁を貰うべきだと考える両親の反対を押し切って22歳で結婚し、23歳の時に姉が、29歳の時に私が産まれ、当時の世帯人口は12人まで増加して、その生活が父の肩に掛かっていたようである。建設業で木材の破片が多く手に入ることも一因だと思うが、私は小学校の低学年まで薪で涌かす風呂に入り、薪で焚いたご飯を食べていた。 私が産まれたことで手狭になったためではないだろうが、自宅から次々と3人の弟が独立して世帯を構え、同じ頃に祖母(私から見ると曾祖母)が81歳で亡くなっている。人が少なくなった1970年に私の弟が産まれたが1972年に交通事故で1歳7ヶ月の幼い命が失われ、同じ年に父の弟Cと祖父を失っている。今の私は父を失ったことによる喪失感だけでも厳しいのに、自分の息子と弟、祖父を失うことに成った年の厳しさを想像すると改めて居たたまれない思いになってしまう。それが原因かは今となっては解らないが現場仕事も殆ど辞めてしまった。 それから4年が経過して父が41歳の年に私の妹が産まれ、同じ年に姉が都内で一人暮らしを始めた。父が47歳の年に妹が小学校に入学したが同時に私も木更津を離れて群馬大学に進学したのでそれ以降の家庭内の状況はよく解らない。当時の家庭構成は父から見ると両親と妻と娘、そして独身で近くに住む弟Dの6人世帯になった。父は貸家やアパートの収入で江川区の区長や妹の小中学校のPTA会長としての活動に勤しんでいたようである。 結婚した私の姉が娘を産み、父は48歳で「お爺さん」に成った。不器用だった父は孫が来ても無愛想な対応を行い続けたので義兄は父が結婚に不満を持っているのかと心配して居たようである。私の姪っ子も「爺さんは怖い人」という印象が強いようだ。多くの悲しみを越えてきて優しさが溜まっていると思うが、外見的に愛されることを選べない人生も残念であったと今では思われる。 父は昭和最後の統一地方選挙である1987年に市議会議員選挙に立候補した。当時私は日本道路公団の職員として神戸に住んでいたので情報不足であったが、日本国有鉄道が分割民営化される年と重なっているため、徹夜で手に入れた貴重な一日乗車券を祖父の危篤見舞いに使い、選挙事務所にも挨拶に行ったが上滑りしている記憶は今でも残っている。見舞いの数日後に祖父は亡くなり再び葬儀に参列したが、その数日後の選挙で父は当選枠に届くことはなかった。 それから私も上田に転勤となり仕事は充実していたが、自らも施策の上流である政治を担いたいという考えで日本道路公団の職員を辞職し1990年に8年ぶりの故郷に帰ってきた。当時55歳になっていた父からは帰って来てくれと言われたことはないが、跡取りである長男の帰宅は嬉しかったようである。ただし私が帰宅前に消防団へ入団することを本人の了承もなく勝手に決めていたことは如何なものかと今でも思っている。 当時は会社組織の体を成していない休眠状態の「近藤組」の代表を名乗いながら仕事を受注することの不安は多かったが「元日本道路公団職員」の肩書きの信用は大きくてバブルの需要の高まりで仕事も多くなり、更に青年会議所を始めとした様々な地域の活動に参加することで多くの友人と出会うことが出来た。政治家を選んだことで現場仕事が出来なくなったが人生を間違えたというような考えは持ったことがないはずなのに時々道路公団職員を続けて仕事をしている夢を見ることがある。 父ガ2回目にチャレンジした1991年の選挙では私が実質的な事務局を務め、怪しい名簿屋や選挙の時だけ訪れる飲食希望者などを排除するとともにデータを整理して効率的な状況把握を行うことで当選を果たすことは出来た。しかし、勢いで突っ走る癖のある父の性格に振り回された人は数知れないと思う。今までのやり方を変化させた私が気に入らない方も多かったことは記憶しているが、今に続く地元の選挙体制を作らせていただいたと思っている。盛り上がらない選挙になったが重要なのは選挙で当選することではなく当選後に行う政治だと考えた結果での対応だと理解していただけるようになったと思っている。 父は56歳で新人議員となり地域の様々な課題に向き合うようになり、技術屋の私も課題解決のため、例えば新宿地区でのあじさい通りの渋滞解決として右折レーンを設けるため水路を暗渠にすることや、西山地区の農道の交通量が増えている対策として部分的に擁壁を設置して退避空間を設けることなどを提案したが、直ぐに市役所に伝えて予算を確保して事業化に導いたのは父の成果の一端であると評価している。 委員会の選択はPTAの経験もあって一貫して教育民生常任委員会であり、公民館を中心とした生涯教育の推進に力を入れていた。私が教育委員会の所管する公民館を市長が所管する地域交流センターに移管すべきだと主張しても怒ることはなかったが、価値観の変化には驚いていたことだと思う。 2期目の改選の年に母(私の祖母)が84歳で亡くなった。当時の父は今の私と同じ60歳である。更にその2年後と3年後に続けて弟がそれぞれに自らの意志で旅立ってしまった。当時の私は30歳を過ぎていて叔父のサインを気付くことが出来たはずなのに何もできなかった事を悔やんだが、4人の弟の既に1人が欠けている状況から2人を失い2歳下の弟だけとなった父はそれ以上に辛かったと思うが家族に弱さを見せることはなかったと記憶している。 2002年に67歳で市議会議長に就任し、それまで人口20万人以上の市議会で回していた千葉県市議会議長会会長が人口10万人以上の鎬会で回すように成った初年度に市制施行が最も古い木更津市議会に回って来た時の議長であったので「千葉県市議会議長会会長」に選任された事に喜んでいた。なお、木更津市議会ではその一周後に滝口議長が会長を務めている。議員に成った後には小櫃堰土地改良区の理事長や木更津市農業協同組合の代表監事なども務め、それらは議員引退後も暫く職に留まり、様々な方々と交流を深めていた様である。 市議会議員は2007年3月末まで15年11ヶ月間を務めあげて、後継者として私が立候補して当選し、以来17年が経過した。父は引退した6年後に市の推薦を受け秋の叙勲で旭日双光章を受けることが出来た。78歳のことである。その頃に私が付き合っていた今の妻と結婚したのは受賞の翌年で、内孫となる私の娘が産まれた頃が最も穏やかに過ごせていた日々だったろうと今では思う。 娘が生まれた年の夏に兄弟で最後まで残っていた弟が79歳で亡くなり、飲み仲間の多くも鬼籍に入って友達が減り、一緒に散歩していた老犬も亡くなって外出の機会がめっきり少なくなった。私からも老化防止に歩くべきだとアドバイスしたが朝から晩まで椅子に座ってぼんやりとテレビを見続ける日々が続き、痴呆も進み始めていることを感じていた。 そして昨年の統一地方選が終わり議会の初会合が行われた5月9日に自宅で倒れ君津中央病院に緊急入院することになった。大きな問題は見つからなかったが痴呆の進展と体力の低下が一気に進んだ結果「要介護3」となり秋から特別養護老人ホームのショートステイを利用するようになった。昨年末には施設に入居することになり、2月末に新型コロナウイルスに感染して肺炎を発症し、石井病院の世話に成っていたところ呼吸機能の低下で静かに息を引き取ったのである。 お寺や火葬場の都合と議会日程、更に土曜日が友引という事もあり通夜は17日の日曜日、告別式と火葬納骨は18日の月曜日となった。告別式の日は初七日でもある。家ではテレビを見ているだけだったのに施設に行くと家に帰りたくて仕方がなかったようである父をゆっくり自宅に置いておくことが出来たことは最後の親孝行だったかも知れない。また派手なことが好きだった父のため葬儀は家族葬とせずコロナ前の様に通常の葬儀とした。 葬儀を執り行うのは父が代表監事も務めた農協に頼み、葬儀場は開設に協力したという地元の天昇閣岩根ホールを使うことを即決した。葬儀には農協や天昇閣からも生花を出していただいたことに感謝している。ただし岩根ホールは駐車場が致命的に少ないので、通夜の前に2時間の一般会葬時間を設けることで集中を避けようと思うが、それでも混雑することは覚悟している。周辺の方々には父の最後の我が儘と理解して頂きたいものである。慰霊の写真は本人が事前に選んでいた議員の頃の写真で、胸には議員バッジが付いている。20年近く前の写真であるが参列していただく父の知人にはその頃の印象が最も強いことだろうと思い使用することにした。 通夜と告別式の天気予報では雨に成らずに済みそうであるが風は強そうである。きみさらづ聖苑に行く最初の葬儀が父の火葬に成ることは記憶に残りそうである。当日は前面道路が水道工事で通行止めになるようで、父が議長の時に見学に来た羽鳥野を通過するのも何かの因果かも知れない。明日と明後日は落ち着いて記載することも難しくなるだろうから通夜の前日にHPを記載しながら喪主の挨拶を考えているのである。 追記:父は江川光明寺より「壽執院富勲輝山居士」という戒名を戴いた。私は祖父と同じ「院」で構わないとお願いしたが父の人生を考えると「居士」を与えるべきだという事のようである。派手好きな父は胸を張ってあの世に行けるだろうと住職に感謝である。 |