吾妻の記憶が届く
2026/02/16記
 私のHPに時々意見を寄せていただける「西岩根応援団」さんから吾妻の記憶が届けられた。質問ということではないので回答を行うことも本意ではないが、記憶にとどめるために最近思う事の方に引用する。
 
 吾妻公園に新たな市民ホールや図書館などの文化施設が計画されています。そこで戦後から昭和30年代の吾妻公園周辺のことに語ってみます。戦後の朝鮮戦争の頃、今の吾妻公園の場所には米軍の兵隊さん用の住まいとして多くのテントが張られていました。米軍が木更津基地に駐留されたため多くの日本人が雇用され、勤務時間は午前7時半から午後4時半までで、4時半になるとアメリカ国歌が流されていたものです。日本人の勤務も週休2日制さらにアメリカの祝日も休みで、給与も一般的に良かった様で岩根地区からの多くの方が勤めていました。今の吾妻保育園の西側には米軍軍人専用の映画館がありました。保育園の前には警備隊(MP)があり、入退出には厳しくチエックがされていました。
 公園の周辺には小湊バスの車庫がありバス2〜3台で運行されていました。車庫から吾妻神社に沿ってアメリカ軍人相手のバーが2〜3軒、日本の土産を取りそろえた店もあり、また木更津航空隊の造成に努めた土建業の河口組などがありました。更に吾妻保育園の東隣に今でも、こんもりとした竹藪があります。ここには浅野様という人徳の方と言われた祠があった様です。岩根地区のご婦人方がリヤカーに家で採れた野菜などを積んで吾妻・新宿・北片町などに売り歩きました。その時、浅野様にお祈りしてから出かけたようです。尚、大正時代の頃は吾妻神社近くは海岸であったとの事です。
 
 今の吾妻保育園の隣には、現在では潮見の旧消防庁舎に移転した職業訓練校も有り、私は記憶していませんが中央公民館も保育園のあたりにあったようだし、吾妻の近くには米兵相手の夜の街が出来るなど戦後の木更津は米軍基地の影響を大きく受けていたと聞く。第二次隊大戦で勝利を確信した米国は我が国を統治するために東京に近い基地を無傷で接収することを念頭に置き、その結果として木更津基地の空爆は免れたとも聞いている。
 終戦直前には滑走路が破壊されずに残っていることも有り、日本最初のジェット機である戦闘機の「橘花」が1945年8月7日に飛行したのも木更津飛行場であった。太田山の下には本土決戦に備えた帝国海軍の司令部が移設するための巨大な地下壕も存在しているものの、崩落の可能性があるという理由で公開されていないことが残念であり、議会でも追及したが戦後80年を超えても戦址遺跡として活用される状況には成っていない。
 
 今年度に予定していた弓道場の移設は全国的な公共工事の入札不調の余波を受け1年遅れることに成ったり、文化芸術施設の設計も遅れたり、工事の単価上昇に伴い限られた予算の中で規模等の縮小を余儀なくされたりしているが、その様な状況でも今年の秋頃には工事を契約するように事業が進んでいる。
 新しいものが出来る中で忘れてしまってはいけないことも多いのですよと教えられるメールであったので今回の思う事に記載することとした。市史編纂作業の中には記録が残るかもしれないが、多くの市民に基地と同居した地域の歴史を残すような展示物としての解説も必要なのかなと思いながら今回の記録としての記載をさせていただいた。
 
 ※2月20日に下記のメールが寄せられた。大変参考になるので追記することとした。

 
 吾妻公園について拝読させていただきました。木更津基地の水路から東側の土地(公園・保育園周辺の土地)は米軍から返却され、その後、米軍隊員及び米軍家族専用の映画館跡地に中央公民館が建てられ、また県によって社会教育施設としての宿泊ができる「青年の家」が設置され、その後、職業訓練校として使われたものです。更に中里地区の海苔・貝の漁業は江川海岸から漁場に出たものですが、米軍からの土地返却に伴い共栄海運のガソリンスタンドの前側の道路沿いに丸太で船着き場を造り、水路を通り短時間で漁場に行くことができた様です。 クリスマス時期には米軍から木更津市民にも基地内の一部に入ることができプレゼントを頂いたものです。映画館もかなり立派で木更津市内にあったエビス館、銀映座程度の施設と記憶しています。