33.1月後半の活動記録
 15日から友人の建設会社の手伝いを始める。自らの仕事である現場設計監理業は連続して時間を拘束されるため、議員との両立がなかなか難しくまとまった仕事は避けてきた。逆に時々は自由な時間が有ると言うことを友人に知られたたので、年度末に向かい猫の手の替わりに借りられていくのである。最も忙しさがピークとなる3月は議会のため長期休暇を取る状況を理解した上での契約である。
 夜からは青年会議所OB会の新年総会に出席する。今年からOB会に入会する昭和42年誕生組の入会式も兼ねているので多いに盛り上がり、結局帰ったのは日付が変わる直前であった。なかなか風邪が治りそうもない。
 
 16日も友人の手伝いに行って留守の間に万石区長さんや漁業組合長さん等が我が家を訪れた。新年行事の案内を届けてもらったのだが、迂闊にも水神祭や節分祭の行われる2月3日には私的な用事を入れてしまっていた。地元を疎かにする事になり深く反省する。今後は年間行事管理をしっかり行う必要を自覚する。
 
 17日は終日書類作成を行っていた。久しぶりに現場に近いところにいると技術のトレンドや公共事業の動向などが肌で感じられて悪くない。現場の近くの富津埠頭では新日鐵による羽田空港拡張用のジャケット製作・運搬が進んでいる。地域変化の芽はこんな所にも見えている。そんな日々の中で、3月議会に向けた構想を練り始めねばならない。
 
 18日は午前中に12月議会の報告を行う議会便り発行のため、広報委員会に出席する。今回は16名の個人質問があったので紙面は質問と回答に占拠され、それ以外は窮屈な物になってしまった。市民が知りたい事や議会が本来伝えなければならないことは何かを考えながら紙面を段々と変えていこうと思う。
 
 19日は親戚の法事に出掛け、午後から「週末は雪」という情報でタイヤをスタットレスに交換する。夕方から近所の新年会が行われたが、それと市民まちづくり塾の会議兼新年会が重複してしまい、近所の新年会は挨拶だけして代理に父を出した。塾の会議では自然の話から歴史の話しに移り、様々なヒントを受け取ることが出来た有意義な時間だった。
 
 20日は昼から男女共同参画フォーラムを聞きに中央公民館に行く。結構大勢の人が集まっていた。講師である桂文喬氏は流石に噺家だと思わせる話術の美味さで、ぐいぐい引き込まれていった。内容は楽しく「味(趣味、興味、人間味)のある人生を送る」等の言葉は今後の挨拶の参考になるなとためになったが、それでも費用対効果はどうか等、最近は癖のように考えてしまう。
 
 21日は特に公的行事もなかったので終日仕事を行っていたが、それでもその間に市役所や地元区の役員、同僚議員等からの電話が入る。過去にやっていたアクアラインや東電東京湾横断パイプラインのようなトンネルの現場は電波が入らないから受けられなくなったな、と思うところである。
 
 22日は午前中に書類やメール等の処理をしてから昼間に市役所に行き、1階食堂で昼食を取ってからかずさ四市議会による後期高齢者医療制度の研修会に参加するため君津勤労者総合福祉センターに行く。制度の必要性や構造について県の国保・老人医療室長から説明を受けるが、それによる高齢者の生活の質の変化とか自治体財政の変化など、現実対応的な深いところが見えてこない。まだまだ福祉は全体を学ぶ必要がある。
 夕方から法人会の会議を終えた友人と懇親会を行う。明日からの荷物の整理がまだだなと思いながら飲む酒は酔いが早い。
 
 23日から基地対策特別委員会で基地周辺土地の利活用の先進事例である鹿児島県鹿屋市の行政視察に向かう。基地の周辺土地とは航空機等の騒音が激しい土地や滑走路がある事による航空法の高度制限の掛かる土地を国が買収した土地のことで、鹿屋市は木更津の約3倍となる100ha強の用地があり、毎年国に働きかけることで20haを有効利用している。今回視察したのは平成19年7月に8haの土地と約5億円の予算で完成したグランドゴルフ場であった。視察の感想は「思うところ」にあげるが、本市も動き始めることが重要と感じた視察であった。そしてこの夜は鹿屋市役所から歩いて3分のホテルに泊まる。
 
 24日は視察からの帰路となる。基地対策委員会として国の防衛まで考えを及ぼすとき、一度見ておきたかった物が知覧にある特効平和館であったので若干遠回りになるが知覧経由で鹿児島空港に帰った。多く残された遺書は涙無しには読めない。今の日本の平和と自らの志に、まだまだ彼等に報いていまい、と思うときである。知覧の街中では梅の花が咲き誇っていた。九州には春の足音が聞こえているようだ。
 
 25日は2日半分溜まった書類やメールを処理する。HPの更新も行うつもりだったのだが、年末に市原で温泉が出たと言う話を聞いて夕方からちはら台に行ってしまったので更新が遅れる。
 
 26日は年度末で私的にたまった仕事を次々と処理する。今月中旬に送るつもりであった後援会報も手続きの遅れから2月初旬に成ることとなったので、その対応などが主な内容である。3月の議会質問提出までも時間が多くないし、様々に年度末は忙しい。
 
 27日は翌週の節分に予定されている地元行事に油断して出席できなかったことに対して午前中から役員のもとにお詫び行脚を行う。昼からは浜田靖一代議士の「新春の集い」に出席する。時局講演講師として麻生太郎代議士が登壇し、新潮新書の『とてつもない日本』に記載したような持論である「日本の国は凄いから悲観論に傾いて萎縮しないように」という話をする。内容も話術も感動する。
 講演終了後、会の閉会を待たずに急いで地元に帰り江川区の新年ボランティア集会へ出席する。帰宅した後は後援会報告書の発送準備で夜更かしをするのだった。
 
 28日の午前中は金田東地区の事業展開が目に見えてこないので状況把握のため都市再生機構へ話を伺いに行く。既に先行移転地区の面整備工事を発注しており現場の稼働は来月頃からと聞く。また補償や工事の職員が増え、5課約30名弱で遂行しているという事なので目に見え始めるのももう一息だと納得する。因みに平成18年度末で24%であった進捗率は今年度末で30%弱まで上がると言うこと。逆に言えば7割以上が今後の仕事である。
 昼からは大村委員長と伴に企画課と体育課に鹿屋視察報告と意見交換を行う。その後、本業を行って帰ると1日早く報告書が届いていたので袋詰め作業に掛かる。これが結構大仕事になった。
 
 29日は現場仕事も半日で終え、午後は家族と黙々と郵送準備作業に没頭する。来年は後援会か青年部も動員して一気にやらないとしんどい事が良く解ったのは午前3時だった。
 
 30日は睡眠不足のまま仕事に出向き、昼休み中に郵便局から後援会報を発送する。印刷代、郵送代、袋等の備品などを含めて約20万円の事業である。夜には昨夜の後かたづけを行ったり、HPの更新をしたりして数日間の工場状態に終止符を打った。
 
 31日は月末で通常に仕事し終え、夕方から後援会報を支援区に届け、さらに3日の行事の案内に参加できないお詫びの3件目(漁業組合水神祭、日枝神社節分祭、熊野神社節分祭)に役員宅に出向き謝罪する。バタバタと1年の12分の1が終わってしまった。
 
 2月1日は会派の視察や3月議会の代表質問内容の打合せ、さらに職員給与や金田問題の勉強などを会派室で行う。その場で今回も質問をすることを公言してきたので、そろそろ構想を取りまとめねばならない。
 打合せが終わり帰ろうとしているときに職員による2500万円の市税着服の不祥事の速報が届く。帳簿上未納で有れば、その間に納税催促が届いて気づくのではないかとか、そもそも領収書の管理はどうなっていたのか等、行政運営の手続きを確認せねばならないことが多い。
 夕方からは県による中野畑沢線説明会に出席する。通学路の確保や構造上の問題などを指摘してくる。それが反映されて3月上旬に再度打合せが行われることになった。
 
 2日と3日は知人に誘われ、自転車のトレーニングをするために沖縄に行く予定であったが、雨天のため観光をしてくるだけの行程となってしまった。この日程を年末に決めていたので3日の諸行事欠席になってしまったのである。
 八重岳の桜を見ている頃、地元では大雪が降っていた。帰りの飛行機も心配されたが何とか無事帰り着くことが出来てホッとした。日本の広さを実感する。
 
 
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2008年2月前半の記録