No.40 木曽編      日本を走る ←No39会津編No41訪友編→
旅行期間 1984年7月30日〜1984年8月5日 旅行日数:7日間
総走行距離 929km
走破市町村 63
同行者 無し 使用自転車:OP
総費用 12,028円 当時の年齢:20歳(大学3年)
7月11日の夏祭
その準備だった



7月4日に事故
初日 1984年7月30日
走行区間 桐生市塚本家〜前橋市O森下宿
走行距離 36km
走破市町村 0
累計数 1,197
 来年は研究室や就職活動で忙しいから、この3年の夏に九州までの旅をしよう。そんなことを考えていた7月4日、前橋市内で自動車事故をしてしまう。幸い相手には怪我は無かったが「車の運転が怖くなったので通勤のタクシー代を」「軽自動車では不安になったので大きな車で弁償して貰いたい」など、相手の親が出てきて無理難題を要求。また事故の一因になった同乗の後輩の娘が責任を感じて落ち込んでいることをなだめねばならない。買値10万の車だから修理費の方が高くなるならと廃車にして次の車(20万円)を手配する。そんな事で疲れている16日に、大学の駐輪場に止めていた自転車が盗まれると言う追い打ちが発生。これは今年の夏には旅に行くな、という天命だなと九州を諦める。など様々な雑務に追われつづける。
 事故相手の無理を説得して示談が成立した頃の26日、別の自転車置き場にて汚れ果てた我が自転車を発見する。色々有った7月だから気分転換に1週間程度の旅に出よう、そう決めて出かけたのがこの木曽編である。
 前橋まで旅装備のままで移動し、新前橋で事故証明を受け取り事務手続きを終え、後輩の娘に顛末の報告をして安心しなと言い、組織部の後輩達と暑気払いを行って、後輩のO森の下宿に泊めて貰った。
2日目 1984年7月31日
走行区間 前橋市O盛下宿〜上松村倉本駅
走行距離 213km
走破市町村 14(浅科,望月,立科,武石,長門,和田,下諏訪,岡谷,塩尻,楢川,木祖,日義,木曾福島,上松)
累計数 1,211
 後輩の下宿を未明にそっと抜け出て西を目指す。安中、横川と経て碓氷峠旧道を駆け上がり、御代田から旧中山道に沿って浅科、望月、立科と古い町並みを通り過ぎ2番目の峠である和田峠に至る。さすがに体力的に辛くなり脱水症状気味にバイパスを越えて諏訪大社の仮舞台(写真)で昼寝をする。
 若干の睡眠で体力を取り戻したら塩尻峠を越えて木曽路に入る。奈良井宿を始め、木曽の町並みを大切に保存しようとする人々の営みに葛城ゆきの木曽は山の中という歌のワンフレーズが頭を掠める。
 ♪木曽は山の中です。誰も来やしません。だから貴方が恋しくて熱くなるのです。
 日中が暑すぎたためか、木祖村に入ったところで突然の土砂降り。おまけに雹まで降ってくる。100分間にもなる長い雨宿りで体も休まる。雨上がりには浦島伝説のある寝覚ノ床を見て中央線の倉本駅で駅寝だ。
3日目 1984年8月1日
走行区間 上松村倉本駅〜鳳来町長篠城址
走行距離 197km
走破市町村 16(大桑,南木曽,山口,中津川,恵那,瑞浪,土岐,多治見,笠原,藤岡,足助,下山,額田,作手,新城,鳳来)
累計数 1,227
 今朝も爽やかな朝。吊り橋や木曽檜の森が美しい。妻籠宿を堪能し馬込峠を経て馬込宿に入る。帰ってから速攻で「夜明け前」を読んでしまったぐらい良い印象を残した町並みである。
 岐阜県に入り多治見まで19号線で進んだ後、三河高原に向けて南下を開始する。日差しは厳しく気温はどんどん上昇するなかでアップダウンを繰り返していると、だんだん気分も朦朧となってくる。足助の香嵐渓で大勢の人が遊んでいる綺麗な川を発見し、水遊びで体を冷やすが、まさに焼け石に水。そこから少し走った下山の商店でジュースを買おうと立ち寄るが気持ち悪くなり縁側で1時間弱寝させて貰う。軽い熱中症である。
 午後3時も回ると雲が多くなり、休んだ事と日差しが弱まったことで何とか走れるようになり、高原から駆け下りた新城の飯田線で寝床を探すが適当なものが見つからず、長篠城址資料館の高い軒下で寝ることとする。
4日目 1984年8月2日
走行区間 鳳来町長篠城址〜興津町廃車置場
走行距離 198km
走破市町村 8(東栄,豊根,佐久間,龍山,春野,中川根,川根,本川根)
累計数 1,235
 長篠の戦いに想いを巡らせ早朝の古戦場見学。この日は静岡県の山際を走破する旅なので早めに出発する。飯田線に沿って山に向かい、鳳来峡を走り抜け、佐久間ダムに至り電力館で技術者として勉強。ついで防火の神様と言われる秋葉神社を詣でて、春野から奥村を経て峠を越え、下泉で大井川鉄道の沿線に至る。
 この谷を千頭駅まで北上し、この日何度目かの峠越えに掛かる。峠までも当然険しいが越えてから静岡までもひたすら遠く感じられるほど体力も気力も無理が生じる。しかし、静岡市内でロサンゼルスオリンピックの生映像を見ながらゆっくり夕食を取ったら若干復活し、もう少しだけ足を延ばすことにする。
 そして夜の1号線を興津で離れ52号線で北上し身延線の十島駅を目指すがここで体力の限界。道端の廃車置き場のトラックで一夜を過ごす事になったのは日付も変わるような頃だった。
5日目 1984年8月3日
走行区間 興津町廃車置場〜府中市吉田荘
走行距離 182km
走破市町村 22(芝川,富沢,南部,身延,下部,中富,六郷,鰍沢,増穂,甲西,市川大門,三珠,田富,玉穂,豊富,中道,境川,八代,春日居,塩山,丹波山,小菅)
累計数 1,257
 疲労も抜けないまま睡眠時間5時間ほどで目覚め、早朝から北を目指す。身延山久遠寺に寄れば読経の大合唱。日蓮宗は力強いな、と力無く感心し、先を目指す。この日も暑くアスファルトはかなりの高温になっている。鰍沢で52号線に別れ、140号で笛吹川に沿って走り出したとたんにパンク。タイヤを見れば既にツルツルペラペラで、一部はゴムの下の繊維が剥き出しになっている。如何に暑さが厳しい状況で走ってきた物語るようでぞっとする。パッチを2重に重ねるという応急処置をして自転車屋を捜索。山梨市でタイヤを交換して塩山から青梅街道で柳沢峠に向かう。お約束のように今日も夕立。上り坂がひたすら長く感じられる。
 峠からのダウンヒルも土砂降りの中で全く楽しめず。丹波山村から一度東京都に入り、再度小菅村境まで走ってからUターン、などとやっている内に雨も上がり日も暮れて、K野の待つ府中に着いたのは約束の時間を2時間も回った夜10時過ぎであった。
6日目 1984年8月4日
走行区間 無走行(府中市吉田荘)
7日目 1984年8月5日
走行区間 府中市吉田荘〜桐生市塚本家
走行距離 102km
走破市町村 3(南河原,千代田,邑楽)
累計数 1,260
 6日目は疲労の蓄積と前日の酒が残っているので1日休養に当てる。スイカを食べて日のある内に銭湯に行って、早くからまた酒を飲むのも悪くない。 
 最終日はK野がバイトに出かける都合で朝6時出発になる。時間もあるので川越の時の鐘や行田水上公園等を見て回り、埼玉県南河原村を走破した後、武蔵大堰で群馬県に入る。そして千代田、邑楽と走り抜けることで群馬県走破完了となる。午前11時には桐生の下宿に到着し、早めに銭湯に入り焼酎とサワーを買って一人打ち上げを行った。(次は訪友編