羽鳥野バスストップの工事が始まる
2006/12/21記
 本日、健康診断のためアカデミアクリニックの日帰り人間ドックに入り、ドック終了後、カメリアで昼飯を食べてから現場に戻る途上で一月ぶりに羽鳥野を通過した。
 ODOYAの近くの陸橋(正確にはボックスカルバート)から館山道を見下ろすとガードレールで車線規制をして法面の掘削作業が行われていた。いよいよ館山道の本線バス停である羽鳥野バスストップ(仮称:以下羽鳥野BSと書く)の工事が始まったのである。
 ここにバス停が出来るまでの苦労を良く知っている一人として、この工事開始はとても嬉しい。烏田土地区画整理組合も解散になり、議事録等も破棄されてしまったからの記憶が鮮やかなうちに経緯でも記録しておこう。
 
 古い所では現在君津市議会議員の三浦章さんが社団法人木更津青年会議所の理事長をした1992年に交通アクセス委員会という組織が作られ、ホテル千成の社長である坂井さんが委員長となり、当時28歳の私は下っ端の委員として参加させていただいた。この委員会は東京湾横断道路が開通した後のバスアクセスを行政に政策提言する事を目的としていた。私が委員になったのはたまたま委員長と私の姉が高校の同級生だったかららしいが、高速バスの運用については道路公団職員時代に上信越自動車道の設計を行う中で検討をしていたから、有る意味ではプロが仕事をするようなものであった。
 その時に出した提言書の中心は国道16号線と409号線の交差点になる中郷神納地区に大型のターミナルを作るべきというものであり、それは現在の袖ケ浦BTに繋がっていった。この提言書は今でも木更津図書館に行けば読めると思うが、内容が簡易な割には三菱総研等からも引き合いの来る、当時としては画期的なものだったと思う(自画自賛)。
 その提言書の中に現在の羽鳥野BSの場所に烏田BSをそっと書き込んでいるが、それでバス停が出来たわけでは無いことは言うまでもない。
 
 それから10年が経過した2002年に烏田土地区画整理組合から設計工事課長としての仕事を請けて私は組合の事務所に入った。当時は木更津南JCTから君津ICまでの工事が最盛期で、羽鳥野の中央を縦貫する高速道路の工事と区画整理の工事の調整も必要であった。
 ある日事務局長が道路公団との用地交渉の中でインターチェンジの要望を出したけど受け入れられなかったことを話してくれたので、木更津南ICから近すぎて当然無理な話だと思うがバス停なら可能だろうが要望しなかったのかと逆にこちらから聞いてみた。当時の担当者には本線バス停という発想が無く、そもそも用地単価で交渉が難航している中でそのような話も出せない状況だったと知る。また八幡台に住んでいる事務局長もバス停の話しにかなり積極的であり、今からでも何とか出来ないかと私に言う。
 構造的には幸いなことに切盛の逆転場所が有り、用地取得や大きな工事費も掛けずにバス停の設置が可能と判断できたので駄目で元々と道路公団木更津工事事務所に事務局長と私の2人で打合せに行った。用地交渉では犬猿の仲だった頃を過ぎ、互いに工事の早期完成を目指して協力し合う間柄となっていたし、担当の課長さんも良い物は苦労しても作るというタイプの人だったので前向きに相談に乗ってくれた。
 打合せでは、当時のアクアラインバスの好調さや周辺人口の多さなど、バス停を設置する条件としては申し分ないが、東北道等で使用されていないバス停が会計検査院から無駄な投資と指摘されている事例も有り、自治体による周辺整備やバス運行会社の使用の確認が必要なので木更津市、県、旧建設省、旧運輸省、バス会社を構成員とした協議会が必要であるという結論になり、木更津市の出番の時を迎える事になる。
 
 木更津市も交流人口の増加を提案しているし、水越市長の地元の事業でもあるから反対する訳がないと思っていたが、周辺整備予算の不足から当初は難色を示し、交渉は難航した。公団も設計を見直し、出来るだけコストを押さえ地元負担が軽い形にすることと、組合からバス停事業に対する協力金1400万円を払うこと、さらに駐車場の整備は組合の理事長が個人の財産を使って民間事業として行うことなどの条件が整い、市は財政負担が少なく成果の大きな事業を得る事になる。財政負担が少なくとも対国土交通省説明資料として、バス会社がバス停を使用する事の念書や、羽鳥野以南の自治体が本線バス停の請求を行わない申し入れ書を集めて回るなど、市の担当者はずいぶん苦労したようだ。
 
 市の企画部の呼びかけで、館山自動車道鳥田バスストップ設置連絡協議会が設立され、私もその一員となる。実務上は協議会用の図面や関連資料の作成も協力した。
 最初のバス協議会に来た公団の東京支社課長補佐が私と同期入社の友人だったことや県の担当者も同時代に消防団をした知人で有ることなども有り、話は順調に進むかと思われた頃、大きな道路公団民営化の流れの中で建設の決断が下せない状況になる。もちろん当所の開通に間に合うわけもなく、羽鳥野BSが無いままで2003年4月の君津ICまでの開通となる。せめて後1年、協議が早ければと悔やまれるが後の祭りである。
 
 烏田土地区画整理も事業主体である新日鐵が事業計画単価と実勢単価の差による損失を負担してくれたこともあり、無事に2005年末で解散が出来るようになったが、依然としてバス停が事業化されない。それでも後は任せましたと市に協力金を払い組合は解散して私も責任を全うして仕事を終えた。そして、長いことその後の状況が気になっていたが、やっと工事着手を迎えたわけであり嬉しかった。
 
 1988年にNHKで流された「うさぎの休日」というドラマでは長渕剛が演じる空港の整備士がマイホームを探す苦労を描いていたが、2007年の春には羽鳥野バス停が営業を開始し、羽田空港から通勤30分の距離に60坪の一戸建が建物込み3000万円以下で手に入る設定に変わるのである。この事を知らない空港関係者へ何とか情報を伝えたい、羽鳥野BSの工事現場を見ながらそんな事を考えていた。