韓半島の板門店で思う
2008/07/09記
 ベルリンの壁が1989年に崩壊し、東西ドイツが一つになった1990年には近い内に南北朝鮮も一緒の国家に成るかも知れないと思っていた。しかし、東ドイツの隣に存在したハンガリーやオーストリアの役割を中国が行うことはなく20年近い月日が流れていった。
 北朝鮮では政権の世襲の影で飢餓と圧制が進み、南北の格差は統合を経済的に困難と判断させるほど広がらせている。
 中国の経済躍進と北京のオリンピック開催により報道の自由と民主化が進むと国境の壁が低くなり、可能性は少ないが、北朝鮮からの大量出国という東ドイツが崩壊した状況と同じケースも考えられる。万が一、そうなった場合は韓国には人口の1割に相当する400万人、日本にも100万人近い経済難民が押し寄せるだろうと試算する人もいる。日本にとっては人口の1%。決して少なくない。
 
 ともあれ、そんな日が来るのかどうかは解らないが、南北の融和が進むことでも停戦会場であり南北の前線の空気が変わってしまうこともあり得るので、時代を見届けたいと思い、7月3日に清渓川見学を兼ねソウルに行き、板門店を見てきた。
 以下当日の流れを追って説明する。
 
 既に日本国内でインターネット予約をしていたが、朝8時20分にロッテホテル6Fに有るPTC(板門店旅行センター)で手続きを行い、7万ウォンを支払って指定されたバスに乗る。他に大韓旅行社と中央高速観光の3社だけが韓国側からの板門店ツアーを許されている会社で、そのツアーに韓国人が参加することは困難である。あくまで西側陣営諸国に対する前線のPRという目的が優先されてるかのようである。
 この日はPTCだけがツアーを実施しているようで、45人乗りのバスは全て日本人で満席であった。当然ガイドも日本語で説明を進める。なお、もう1台のバスがツアーに同行したが、そちらはメキシコの学生団体を中心に30名強が英語での説明をしていたようだ。
 なお、6月中は北朝鮮内にある開城工業団地での韓国企業の運営を話し合うために板門店で会議が続き、ツアーを行えない日が多かったという説明である。経済会議も全て軍事境界線で行う必要が有るところに、現在にも続く異常さを感じる。
 
 板門店には漢江に沿った自由路という高速道路を北上する。漢江が合流する臨津江(イムジン河)の一部が軍事境界線であるために、川を使って侵入するスパイ対策で、高速道と川の間には有刺鉄線と監視小屋が設置されている。しかしソウル近郊と言うことも有り、交通量は多く、緊張感は低い。
 しかし国境が近づき、臨津江の手前にある検問で軍人にパスポートチェックを受け、バリケードの多い橋を渡ると軍事地域に入る実感がして緊張が高まる。写真撮影も僅かに許可された場所でしか行えなくなる。
 
 少し進むと国連軍司令部基地であるキャンプボニパスに付き、そこで説明を受ける事になっていたが、停電で日程が遅れる。前線らしい緊張感がある。当然写真撮影は禁止である。ここで服装のチェックがされ露出の多い服やミリタリーウエアに見える服は着替えを要求される。足元についても急激な銃撃戦で逃げれるようにサンダルやヒールは履き替えさせられる。さらに、緊急事態に従うことや何が起こっても責任を問わないような内容の日本語で書かれた誓約書へも署名をする。
 
 そこから国連軍のバスに乗り換え、板門店に進む。沿道には田圃や里山が広がり長閑なものであり、地雷の集中地帯である実感が湧かない。田圃の耕作者は昔からの村民で、税金免除の替わりに多くの制約がある生活を送っているようだ。ただ、無農薬の米はDMZ米として高く売れると聞くと、不思議な気もする。
 看板を潜ると共同警備区域(JSA)に入り、自由の家の前にバスが止まる。その建物と平和の家の立派さに驚く。軍事境界線直前での建設作業とは、どのようなものだったのだろう。

ツアー受付場所

漢江の有刺鉄線
平和の家

北朝鮮の監視所

国境線と北朝鮮兵士

国連軍の警備
 板門店に行く前に20年前に中公新書より発行された『板門店』という南北の交渉史の読みかけだったものを再度読破したので、ポプラ事件を始めとした命を懸けた現場の状況を理解していたつもりでいたが、実際に目撃する国境の近さと目前にいる北側の兵士に、かえって現実感がないような、作られた空気を感じる。
 ここに居る多くの兵士も、前線にいながら双方の客に対するイデオロギーのモデルになっている矛盾も感じているのだろうと思う。
 また、国際舞台へのPRとして双方から見えるところに宣伝村を建設している。写真では梅雨時期の水蒸気で見えにくいが、韓国側の国旗掲揚塔約100mに対し、北側は160mと張り合って居るところが、何とも無駄な国威発揚だと思う。
 
 それにしても、地形的には特別な境界が無く続いている目と鼻の先の土地が、欧米より行きにくい土地だというのは皮肉である。
 休戦協定が締結されたのが1953年であるから、55年の長きに渡り硬直している境界である。その間に自然の宝庫に戻ってしまっていることも人類に対する皮肉であろう。
 
 ちなみにツアー最初にガイドから説明を受けたことは、1950年に始まった戦争を日本では『朝鮮戦争』と呼称しているが韓国では『韓国戦争』と言うらしい。同様に『朝鮮半島』では無く『韓半島』と呼ぶのが正しいらしい。このタイトルもそれに従った。そこまでは許すとするが、『日本海』を『東海』として世界に呼称させようと言う運動はいただけない。
 日本は第二次大戦の敗戦によって『大日本帝国』から『日本国』に名称を変えた事に対し、独立を取り戻した『大韓帝国』は『大韓民国』と帝を民に変更しただけである。『大』の字は余分だと中国では言われていると、朝鮮日報の記事に読んだ記憶がある。 

北朝鮮側の宣伝村

メキシコの学生達

通称 帰らざる橋

北朝鮮側の宣伝村

京義線の臨津江鉄橋

脱北者のアリラン演奏
 
 JSAの見学を終えたらキャンプボニパスに戻り、そこで国連軍のバスから来たときのPTCのバスに乗り換える。その間に基地内の土産物屋に寄らせるところが観光地的で何とも言えない。
 
 バスは臨津江の南岸に戻り、臨津閣という京義線の鉄橋に沿った公園に立ち寄る。故郷が北朝鮮にありながら韓国で生活している人達が望郷の思いを込めて整備した公園と言うことで、展望台や戦争で使用された戦闘機や戦車の展示も有る。
 ちなみに韓国国民は一般的には此処までしか北に近づけないのである。JSAに入れるのは冷戦状況のPRを受ける他国民なのである。
 
 そして午後1時を回った頃、臨津江に近い食堂で昼食にプルコギを食べ、脱北者と言われる人のアリラン演奏やフォーククルセダーズの「イムジン河」の歌を聴く。これも全てツアーに含まれている企画である。メキシコの学生なども一緒であるが解説は日本語のみで行われている事も含め、やはりこのツアーに参加する外国人の中で最大多数は日本人なのだろうと思うと複雑な気分になる。
 食事後は往路と同じ自由路をソウルに向かって走り、午後3時にロッテホテル前に到着してツアーは解散となる。
 
 少し前の政財界では、朝鮮半島を南北に分断させてしまった責任の一端である日本国民として南北統一に尽力したいと努力した人が大勢居たが、先の本によると、膨大に命を奪い合った南北の当事者がするので口を挟まないでくれ、という声が主流のようである。
 もちろん、私ごときでは何の役にたつことも出来ないが、事実を把握しておく事は出来る。そして北が民主化した場合、多額の援助が必要になる状況であることも軍事境界線の北側に広がる禿げ山を見れば解ることである。今は何をする事も無いが、今後様々なことを考えるきっかけになる良い経験を出来たと思う。